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さと子の日記広場たより 通算五五三号
    二〇一〇年二月二十二日(月) 旧睦月九日
 テレジンとはチェコにある都市です。ナチスがチェコを占領した一九四一年からアウシュビッツへ送られるユダヤ人の収容所になりました。街の人は追い出され、十万人ものユダヤ人が詰め込まれました。
 子どもは一万五千人いました。十四歳から十歳の子は男の子の家女の子の家に分けられ、朝七時から夜七時までの労働、朝は、コーヒーと呼ばれる茶色い水、昼は野菜の切れっ端とピンポン球大のお団子一個のスープ一杯、夜は塩味だけの実なしのスープに、馬鈴薯が一つか小さな固いパンが一切れ。広い部屋の三段ベッドにぎゅうぎゅう押し込まれ、藁の入った布団一枚。寒さで取り合って破れてしまったらもう何もありません。寒さやひもじさや疲れや、親と会えない悲しさに子どもたちは 笑顔を忘れました。 そんなとき、同じように過酷な条件にいたおとなたちの何人かが、子どもに笑顔を取り戻したいと、命がけでドイツ軍と交渉し、週に一,二度「教室」を開く許可を得たのです。歌やゲームはいいが、勉強は禁止。でも、こっそり絵を描く集まりを開きました。「あした戦争が終わるかもしれない。お家に帰られるかもしれない」子どもたちは遊園地やお誕生日会など楽しかったことを思い出し目を輝かせました。そして描いた絵には名前を書きました。フリードル先生が番号でしか呼ばれなかった子どもたちに「あなたには名前があるのよ。父母から貰った名前ですよ。」と言ったからです。
 描く紙がなくなると、おとなは見つかったら殺されるのを覚悟で、捨てられた書類を盗みました。寒いのにセーターの裾から少しずつ毛糸をほどいて子どもに届けたお母さんたち。会えないけれど、そのぬくもりを子どもたちは感じたでしょう。そんな絵が四千点焼け残り、見つけたビリーさんの手でプラハのユダヤ人協会に届けられたのです。
 一八八九年、野村路子さんは、ユダヤ博物館で子どもたちの絵をお嬢さんとの旅行中見ました。そして「日本の子どもたちに見てもらいたい」と思ったのです。大変なご苦労を重ね、その思いを形にし、一九九一年から〈テレジン収容所の幼い画家たち展〉を全国で開かれました。九〇㎝×九〇㎝の四方の写真パネル一五〇枚の展示です。
 わたしはテレジンのことを昨年十二月まで知りませんでした。
福岡や下関、日田などであったそうですが、北九州はまだです。
「北九州の子どもたちに見てもらいたい」と強く思っています。



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