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平成十九年度聰子の日記広場たより十七号 
 
通算五三二号     二〇〇七年十二月二十二日(土)旧霜月十四日

 
安曇野はうっすらと雪でした。
 十二月三日心不全で亡くなった母に会いに、長野県安曇野市穂高有明へ
着いたわたしたちをはらはらと雪が迎えてくれました。一日から来ていた茨城の
姉の作った里芋入りの味噌汁を前日美味しいと言って食べた母でした。
元旦に九十歳になるはずでした。
 五日の納棺は晴天。通夜はオリオンがくっきり見える素晴らしい夜でした。
五人兄妹の末っ子だった母ですから、すでに皆故人です。私より年長の甥
三人が九州から「一目おばしゃんにあってお別れしたい」と駆けつけてくれました。
六日の出棺も晴天でした。蒼い蒼い空でした。九州と違って信州は先に火葬し、
骨壺を祭壇に飾って告別式です。静かな高原のような火葬場で母を焼きましたが、
姉がGLAで勉強しているので、高橋佳子さんの『祈りのみち』から「葬儀に臨んでの祈り」を二十一名で朗読しました。初めは小さな声でしたが、大きな声で読めました。
(前略)牧キクノさんが魂として赴くべきところに赴き 為すべき事を為して 
そこでまた新たないのちを生きることが出来るように支えてください(中略)
あなたは良く生きられました よく歩まれました(中略)
あなたが再び現身の人となり 地上を耕す魂として生まれる日まで
わたくしたち現身に生きる者たちを 温かく見守り続けてください(後略)

 小柄な母でしたが、骨は真っ白で硬く「お元気な方だったのですね」
と係の方が言われ、誇らしく思いました。
 母は、苦労の多い人でした。目を病んでいた祖母と一歳と五歳の私たち
姉妹を連れて満州から引き揚げてきました。でも安曇野で庭の草木を
丹精しながらの二十年間は今までで一番幸せな静かな時間だったでしょう。
弔問の近所の方は口々に「いつもお庭でにこにこなさっていて、これあげま
しょうと花や苗をいただいたのですよ。百歳まで生きられると思っていた」と。
そして印象的だったのは「いつも私を褒めてくださって、嬉しかったです」と何人
も仰ったことです。正直に言うとまだ母の死から立ち直っていません。
 日記広場はしていますが、そのほかは何もしていません。牧山小のおはなし
の会も熊森協会も友の会も俳句会も。こんな事ではいけないと思いつつ
皆さんのご好意に甘えて日を過ごしています。誉めてくれる母
がいなくなったからでしょう。少し時間がかかるでしょう。 カット 管物(菊)