平成十八年度 聰子の日記広場たより22号
 通算五〇七号  二〇〇六年十月二十五日(水)陰暦長月四日

 いつまでも暑い秋だったからでしょう、銀杏が黄葉しません。櫻も茶色です。
 三年前から図書室支援に行っている小学校が新築されています。しっかりした材木が使われて五十年経ってはいても、素人目にはまだまだと思うのですが。その校舎が少しずつ壊されていってます。今まで使っていた校舎が無惨に打ち壊されていくのを目の当たりにして、子どもの心には何の影も落ちないでしょうか。工事のうるさい音のなかで授業を受けることは、子どもに何の影響も与えないでしょうか。
 この小学校には正門脇に見事な櫻並木があります。春になると楽しみでした。花盛りには、遠目にも霞のようで見事です。その一本、それも一番枝を張っていた大きな櫻が、工事用トラックの妨げになると言うので根元から切られました。通る度に「ごめんね、人間の勝手で切ってしまって」と謝っています。その幹で椅子やテーブルも出来たでしょう。若園小学校ではそういうのを見ました。加工するのは確かにお金がかかることでしょうが、これがあの櫻だよと、懐かしみ愛しむ心が育つのであれば、安いものです。無惨に燃やされたのでしょうか。どこかに譲られて加工されていたり、もしかして櫻の幹の皮で染め物をしましたという人がいたら嬉しいです。
 校舎の新築にいくらのお金が使われるのでしょう。気持ちの良い校舎で子どもたちが学校生活を送るための税金ですから、惜しくはありません。ただ、五年前に車椅子の子どもが入学したとき、二階にスムーズに上がれるような工夫は出来なかったのかなと疑問に思います。小さかったその子も今は三十sに成長しました。みんなから「ばーば」と親しまれているお祖母ちゃんが付き添うのが条件の普通学級参加と聞きました。今沢山のお金を使うのに、五年前にわずかのお金が使えなかったのでしょうか。「きまり」だったのでしょうか。一階と二階に車椅子を用意しているとはいえ、階段は抱えて運ぶのです。この頃重い荷物が持てない私は「ばーば」の苦労を思います。
 行政が「きまり」をたてに弱者を切り捨てています。わたしの尊敬する大村はまさんは『灯し続けることば』(小学館)で「昨今、叱らなくても大過ないことを常識のものさし「きまりだから」ということで軽率に叱る(中略)した事の悪さより
叱られた傷が大きい、そんな過酷なことがないように・・。」と書か
れています。形より心を大事にすればそんな過ちはしないでしょう。