わがままな精神科医の夏帽子
   シリーズ街角の俳句会 O
        鍬塚 聰子(現代俳句協会会員) ( 2005年9月2日締めきり)

屈託やズボンの裾のゐいのこずち 大山女魚
 
 熊本の街角俳句会「渓流句会」を紹介する。
 渓流句会は八月現在で四八回を重ね、毎年一月から十二月までを纏めた
『渓流句会』という俳句誌を発行し、来春早々の五号が待たれる楽しそうな
句会である。 
 本欄がきっかけで発行人の大山女魚さんからお手紙をいただき、五月末に
博多で開催された学術研究会でお目に掛かり、同会の青桃さん二風さんにも
親しくお話しさせていただいた。お三方ともそうだし、学術研究会での発表の方
質問の方、どなたも共通して声が素敵だということを発見して嬉しかった。
 爽やかだったり、深みがあったり、穏やかだったり、悪戯っぽかったり、
過激だったり、渋みがあったり、謎めいていたり、もっと聞きたいという
素敵な声だった。ただ艶っぽいというのかセクシーな声はなかったのは
学術研究会という場だったからだろう。
 句会に戻ろう。『渓流句会』四号は四三頁の小冊子。毎月第三か
第四火曜日に句会は開かれる。そして例えば九月だったら「酒」という
兼題で一句。あと当季雑詠で合計五句出し。メンバーは十人から十五人。
不在投句もあるだろうから、いつも丁度良い人数であるに違いない。
 それに「一句鑑賞」「五句鑑賞」「自句自解」「菜の花忌」や「「私の俳句
事始め」というエッセーなど自由闊達、編集人のやおさんのお人柄を想う。
 
 一月句会より
昼間から堂々「どう」と年酒かな  ゆわな
 おもしろい句。お正月だから堂々となのだが、そこで「どう一献」と引っかけて
遊んでいる。俳句はもともと俳諧だったのだから、こういう遊びから入って沢山
作ると、そこからもっと面白いのも出来るに違いない。

 二月句会より
ふだん着の宴小さな桜鯛     まゆ
 着飾っていないけれど、溢れる喜びが「小さな桜鯛」に輝いている。
当事者であれ第三者であれ、その喜びによる幸福感が感じられる。
まゆさんはきっと小さな事にも喜びを見つける名人かもしれない。
 
 三月句会より
四方の日を吸ひて散らして猫柳  木瓜
 兼題が「猫柳」ぷっくりした猫柳の花穂が日が経つにつれて開いていく。
まるでお日様をたっぷり吸って、そして散らしていくようだというじっくり対象
を眺めるいい目の木瓜さんである。ところで木瓜にも花梨のような実がつく
と聞いた。花梨酒のように木瓜酒が出来、呆け防止に大いに効果があるとは、
風聞のみだろうか。いつか見たいものである。

 四月句会より
春うらら腹話術師の口ゆるむ   はま丁
学術研究会の懇親会で腹話術があった。でも、手元の人形に気をとられ、
腹話術師の口は見てなかった。なんだか見たら悪いような気がしたのは
プロではなくアマだったからかもしれない。はま丁さんの腹話術師はきっと
プロに違いない。その腹話術師の口が緩んだ一瞬を春のせいなんだよという
はま丁さんの優しさを感じる。

酢昆布をかみかみ私の春が行く  はる江
 はる江さんだから「私の春」いや、この断定がいい。しかもガムではなく
酢昆布と春の取り合わせがいい。初夏のすっぱさと晩夏のけだるい甘さが
酢昆布に凝集されているのがおもしろい。
 
 五月六月句会より
風薫るエフ分の一のリズム哉   屋久島
 エフ分の一とは自然界にある揺らぎのことだそうだ。アメリカのJ.B.ジョンソン
という人が真空管の出す雑音を研究中、特徴のあるパワースペクトルを発見し、
それをエフ分の一ノイズ(雑音)と呼んだとネット検索で判った。そういえばもう
壊れたけれど何年か前の扇風機にそういう機能がついていたなあ。
自然の前に人間のこざかしい知恵は無用。たっぷりと薫風を楽しもうという
屋久島さんの心意気。

子どもらの指さす先や風薫る   二風
 子どもたちは何かを指さしている。大きな樹があったのかもしれない。
白い雲が浮かんでいたか、あるいは海を見たのかもしれない。その指先
に薫風をみた二風さんは詩人だ。

球体となりて少年泣ける夏    りゅう
 『itと呼ばれた少年』を思い出した。あるいは天童荒太の『永遠の仔』。
球体と夏の取り合わせが、ひょっとして高校野球に結びつくと、句の印象
はがらっと変わってしまう。児童虐待に結びつけるのも、思いこみかもしれ
ない。りゅうさんは少年の爽やかな涙を描きたかったのだろうか。おさなごは
丸まっては泣かない。球体になるのはおとなを拒んでいるから。が、少年の
屈折もまた爽やかなのかもしれない。
六月の少年風を押し返し    りゅう
 この少年も素敵だ。

見えている島がふるさと明け易し   やお
静かである。ある夏の朝の静かな心持ちのと同時に、人生の長い過程も
浮かび上がらせる。こういう句を懐が深いというのだろう。

梅雨明けやどこにも行かぬ顔を剃る 呆磊 昔は「梅雨明け」の文字が
大きく新聞に載ったものだが、最近はなんだかよくわからないうちに梅雨入りし、
明ける。しかし、予報に頼らずとも「梅雨が明けたな」と感じた朝の気分が良く
出ている。女性ならさしずめ「どこへも行かぬ化粧する」だろうか。ところで呆磊さんは
何とお読みすればいいのだろう。豪放磊落の磊なのだが・・・・
 それにしても渓流句会は俳号がいい。渓流釣りが趣味の大山女魚さん、
松尾芭蕉の若いときの俳号桃青から青桃さんの諧謔、永井荷風がお好きだ
と聞いた二風さん。月兎という可愛い俳号をゲットされるなんて羨ましい。

 八月句会より
縁側でおういと呼ばれ衣被    月 兎
 衣被は美味しい。食卓ではなくそれを縁側で戴く趣向もいい。つるりと
剥けるあの気持ちよさと「おういと呼ばれ」る心地よさが重なっているのがいい。
俳句を始めてまだ間がないように一句鑑賞で月兎さんは書かれていたが、
あれこれ考えずにこの句は楽に出来たようだ。俳句初学はとにかく五七五とか、
季語は、とか考えて雁字搦めになって句会が苦会になることもあるが、
楽しい句会になるのも間近い月兎さん!

腰曲がる農夫のみこむ芋嵐     ま ゆ
たぷたぷと八月の雲反戦歌     りゅう
先生が来る新涼の手を挙げて    や お
かなかなのなお鳴き足らず峡の暮れ 青 桃
 青桃さんの『俳人杉田久女の病跡ー作られた伝説ー』を読んだ。
丹念に実証されていく見事な手際に引き込まれる。北九州に住んだ俳人ではあるし、
『杉田久女ノート』を書いた天籟通信の増田連さん(久女の夫君に小倉中学で教わった方)
と句会が一緒だったり、それ以後に田辺聖子さんが書いた『花衣ぬぐやまつわる・・・・
我が愛の杉田久女』の出版記念会の受付をしたこともあって、虚子嫌いの久女びいき
だったから、高浜虚子の作為的な資料操作、松本清張の剽窃、古屋信子の底意、
あるいは中村汀女の年譜の誤りなど明らかにされることに驚いてしまった。
 平成二年頃から資料の蒐集に努められて、遂に一冊の本に上梓されたのは
「久女の芸術家としての矜持と生活者としての苦悩に共感した」とあとがきに書かれ
ているように、久女への愛を感じて嬉しい。その情熱家の青桃さんの片鱗が
「なお鳴き足らず」に表れている。弱者への深い愛を感じる。

 九月句会より
屈託やズボンの裾のゐのこづち 大山女魚
 ズボンの裾に牛膝がついたのが気がかりなことではない。屈託があって、
ふと気づいたらズボンの裾についていたなあと、このさりげなさがいい。こういう
人は自分のしたこと大げさに言わない。「渓流釣りから」と題し、熊精協会誌に
連載されたエッセーのコピーを戴いて読んだのだが、もっと威張ってもいいのに
と思うほど慎ましく書かれていた。
 精神科医はもっとわがままでなければ身が持たないというのが私見である。
「わがままな精神科医の夏帽子」はグランパ句会で、はじめて精神科医に接して
の感想句なのである。文字通り私利私欲に走る我が儘な精神科医もいる
かもしれないが、私の知る限りの精神科医はあきれるくらい優しい。

 十月句会より
山頂の風は自在よ草紅葉      やお
うつうつと新涼の爪伸びている   りゅう
二句とも言葉が籠もっていない。自然に生まれた言葉の勢いがある。

百舌鳥鳴いて古書目録の一日かな 大山女魚
 リタイアしたら三島由紀夫を書くと話されていた。前出の増田連さんは
古書屋さんなので『豊饒の海』四部作を入手したこともあり、はやくお仕事
やめられないかと楽しみにしている。その前に山女魚の塩焼きを食べさせ
ていただく約束もある。熊本で合同句会ができたらいいなあ。

 十一月句会より
東京に初時雨ふと一人かな    清 舟
 時雨では安住敦の「しぐるるや駅に西口東口」が好きなのだが、それによく
似た雰囲気だ。東京に実際いてもいなくても構わない。テレビが東京の初時雨
を報じていたのかもしれない。都会の孤独という手垢まみれのとらえ方ではない。
死ぬときも生まれるときも一人なんだというもっと大きなとらえ方が「ふと」に感じる。

 十二月句会より
飄々と頬撫でてゆき冬の鐘     陶 子
 頬を撫でていくのは冬の風なのだが、そうではなく冬の鐘の音なのだという
感覚が素敵だ。感性があるないという感性は五感なのだから、鐘の音を聴覚
だけではなく触覚で捉え直した陶子さんの感性に拍手したい。