わがままな精神科医の夏帽子
     
    ーシリーズ 街角の俳句会ー C
                                    
 妻と居れば泰山木に海の闇  佐野まもる
 
 泰山は、中国山東省の中央部、済南の南東に位置する名山。秦代から皇帝が封禅の儀式を行ったところ。ひいては高い山、と大辞林にはある。広辞苑も同様の記述。ただ、地名が華東区山東省泰安の北方と詳しい。詳しいから、判るかというと
中国を皆目知らない身には、いかように書かれても同じことである。しかし、ここでは泰山が、どこにあるかはまったく関係ない。
 泰山木はモクレン科の常緑高木である。さぞかし泰山には泰山木が群生しているだろうと想像する向きも在ろうが、実はない。この木は北アメリカ産で、日本には明治初年に渡来。Magnolia grandiflora と言う。Magnoliaは中国原産であり、花が蓮に似ているから木蓮と名付けられたが、Magnolia gradifloraは似たような大きな花だが、咲く時期も違うし、木蓮よりずっと高木である。これはあの中国の名山の泰山のように大きな気高い木と名付けるのが都合良かろう、と決めたに違いない。アメリカ嫌いの中国好きの命名者だったのだろうか。
 泰山木は泰山には自生しないと高校時代に漢文の先生から教わったが、北アメリカ産と知ったのは、これを書くにあたって歳時記を開いた時である。一杯食わされた思いが一瞬湧いたが、それだけで腹が立たなかったのは、やはり泰山木の花、葉の悠々たる有様を、多分名前だけで実際に泰山を見たわけでもないだろうに、泰山は土壌を譲らずの言葉通りに借用したことに、日本人には少ないと言われるユーモアを感じたからだろう。
 泰山木の白い大きな花の香は、初夏に漂う。梅雨の晴れ間、背伸びした拍子に芳香を感じることもある。
 人間が、自然の匂いに鈍くなり、目の前に例えば、梔の白い花が咲き、その匂いが漂っていても、トイレ芳香剤の匂いがすると言って憚らない人が増えた今日、見上げなければその白い花を認められない泰山木の高貴な香りを感じられる人は一体、何人くらいだろう。
 梅や桃や桜の花は、ずいぶん人々に愛され、詩にも詠われている。奈良の昔から在る強みだろうが、それらの花は、散ってなお可憐である。
 桜は、咲き誇る美しさと、その散り様を愛された。潔く散るというのはこじつけで、いつまでもはらはら未練たっぷりに散っている。そして、地に堕ちてさらに色を濃くするのは、不思議な魅力である。
 不思議と言えば、話が飛ぶのだが、桜や桃と同じく薔薇科の姫林檎の花の蕾は赤に近いピンクである。それなのに花開くと、どこにも桃色は見当たらない。純白なのである。これがずっと、疑問。
 桜の花は、咲いているときは薄い桜色なのに、散ると、桜色が濃くなる。姫林檎(林檎の花を身近に観察したことがなく、姫林檎しか知らないのだが)は蕾は紅く、花は真っ白!
 人間にとって不思議でも、植物にはそれぞれの必然の故に、そうなっているはずである。人間の浅智慧では追いつかない部分を、人間は神秘と簡単に片づけるのだろう。
 それで話を泰山木にもどすと、この花は香気と色で、生半可の人間を寄せ付けぬが、大きな花びらが茶色になってくたっと落ちているのは無残である。
 桜の花は散っても愛される。また話が逸れるが、桜の花びらを山ほど集めて、狭いベランダで花坂婆さんの真似をするのが大好きである。花びらは触っても柔らかいし、撒くとふわっとあたりをピンクに染める。こんな幸せはない。
 それが泰山木にはない。きたなく変色した花びらは、木に在った時の高貴さを想うが故に、無惨である。
 恋人の手痛い裏切りである。あるいは我が身の情欲の果てを見せつけられる思いである。
 さて、われらが街角俳句会のメンバーが、いささか変わった。変わらないのは家主のくにさんと、発起人のそらさんと、私の三人。
 去年の十一月まで有力メンバーだった優さんは、この日精診誌のちょっと一息を軽快に執筆しているが、句会への復帰を願っている。 
 
 四月高点句 投句十三名選句十三名
9点 前世は女でありしガラス瓶    さとこ
6点 陽だまりをひとりじめしてつくしんぼひろし
5点 遠山の春集まりて大河あり      賢
5点 春雨の音に髄い書を読めり えの
4点 春ぽかり枝にポカリと日を継いで  ゴン        
 五月高点句 投句十二名選句十二名
6点 咲き乱れ娼婦の如きチューリップ  ほたる5点 躑躅濃し住み人なき家の庭     賢
5点 麦熟れる心臓が空っぽなんだ そら
5点 散る花の形見にあらず桜貝     えの
5点 明日思い夜更けに糠床混ぜており 剛
4点 悲しみは愛の形や春終わる くに
4点 心とは空を見るよに果てしない ゴン
4点 セロリ買う西蔵僧になりたいの  さとこ

 六月高点句 投句十一名選句十二名
6点 麦の穂の揺れて私は一人です   ひろし
5点 吹く風に変わる季節や風を抱く   ゴン
5点 深緑の街へ棺をかつぎだす     そら
4点 耳鳴りの夜は明けたり蝉生まる   剛
4点 と言えど夏蜜柑の純潔      さとこ

この六月、十七回目の句会を終えた。この句会の特徴は、不在投句が半数を占めることと、それぞれがそれぞれの世界を、いかに五七五に表そうかと腐心している点である。目標とする大きな柱が在るわけではない。こうやって句を並べてみると、てんでばらばらという印象は強い。しかし、言葉をたぐり寄せ、選び、並べ、削り、そうやって思いを述べる作業は同じである。
 服の好み、煙草の好みが違うように、俳句も違う。だから、作るだけではなく、他の作品を選ぶことも大事になる。
 不在投句の大家はひろしさんとほたるさんである。選句をしていただくようになって以来、作風が変わった。
 六月に可愛くデビューほたるかな と、六月の第四回句会より参加のほたるさんは、チューリップと娼婦の組み合わせで高点をさらった。俳句は虚構を書いてもいいと、選句することで得心したのではなだろうか。
 ひろしさんもそう。十月句会より参加で、欠稿
なしどころか、投句はいつも一番乗りの熱心さである。初期のただ甘いだけの観念的な句が、麦の穂が揺れるという具体と、私一人の寂しさなのか満足なのか、読む人によっていかようにも変化する微妙な句を作るようになった。
 ゴンさんもそう。彼は一回だけ句会に参加した。年齢的には一番若い人で、言葉の概念に囚われない句を作る。それは形としては洗練されていないだろうが、新鮮さが溢れている。新しい風が吹く。
 俳句という古い器に、新しい感性を入れよう。それが埋没するか、突出するか、それをみんなで感じていくのが句会の座である。
 連なることが、俳句を肥やしていくと信じる。
2001.9 鍬塚聰子