わがままな精神科医の夏帽子
     
    ーシリーズ 街角の俳句会ー @
                                    
 
 二月十四日、かの有名なバレンタインデーに俳句会が始まった。
中学時代から俳句を作っていたそらさん、野見山朱鳥の弟子に師事した久保さん、そして俳句は天籟通信の穴井太に師事の後脱会、今は摂津幸彦亡き後の「豈」と連句誌「れぎおん」同人の聰子の三人で始めた。
 場所は、街道の宿場町として栄えたk街のとあるショットバーG。わたしの中高同級生であるくにさんのバーである。
 こぢんまりした酒場の、その片隅での句会は回を重ね、この八月は投句者十名参加者九名で、全ての椅子を占拠してしまった。
 デザイナーの優さん、二十歳のかづさん、それより少し年長のけいさん、ひろさん、投句だけのほたるさん、ごんさんみな俳句は始めての方。Gのくにさんも二回目から投句、客のえのさん、わかさんも参加。そして句会参加者では唯一の女性であるわたし。
 こう書くと賢明な読者はお気づきだろう。女性が多く、かつ平均年齢は高い、というのが世間一般の俳句会であるから、異色だと。
 それで女性の句会参加者を募集中。
 当初は兼題に頭を抱え、厳選五句の言葉に吐息を洩らしたのだが、いつのまにか当季雑詠、五句以内という緩やかさが暗黙の内に成立したのは、Gで供されるワインの酔いのせいかもしれない。
 くにさんが、にこやかに「今夜のワインは○×■△▼ですよ」と注ぐが、皆さん提出の俳句を選句できるように清書するのに精一杯。そういう仕事は嫌いではないのだが、折角のワインを堪能したいので、事前投句を呼びかけている。きっちり決めるよりも、流れで変わっていく形が好きだ。その過程で戸惑いがあったとしても、それをどう処するかが、個々人の器になっていくのだから。
 と、いささか気障に言えるのも、こころ優しいそらさんの「俳句で遊ぼう」に大いに共鳴するからだ。俳句を作るときには些か真剣であるとしても、一旦明るみに出せば、それで大いに遊ぶべきである。季語がどうの、字余りだの字足らずだの、中学の教科書に出てくるような俳句解説は無用。
 ここに中学の教科書がある。高浜虚子の〈白牡丹といふといへども紅ほのか〉の上五の字余りが『一句全体のおおらかな調べと「白牡丹」の豊かな量感を出すのに役立っている』。と書かれている。牡丹を知らない人もいるだろう。しかし「はくぼたん」と口ずさんだとき、なんとなく何かを感じるかもしれない。それを言葉で纏めてしまうと胡散臭い。安易に答えを求める傾向にある中学生だが、このような解説では納得できず、俳句は訳のわからぬ代物だと思うに違いない。
 わたしの中学時代の一番嫌いな時間が「音楽鑑賞」だった。名曲?を聞かせて、浮かんでくる情景を絵に描けという難題を出す教師がいた。絵が下手だったせいもあるが音楽を聞いても何も浮かばないのには困った。
 俳句鑑賞も似たようなものだ。何も感じなければ何も言えない。だから、感動の一句をなんて言われたら、口ごもってしまう。好きな句は句会の度に出会うけれど、感動の一句にはまだ出会っていない。そういうものがあるかも疑わしい。
 たったの五七五の短さに、感動を生む力があるのだろうか。遊びという軽さが俳句の身上だとのわたしの考え方は、それこそ軽いと非難されるかもしれない。
 しかし、文学は感動を生み出すという偏見が、真面目な日本人にはある。それが諸悪の根元。楽しむためにあるのが絵画や音楽や文学である。楽しみの一つの形として、ある日ある時に感動が生まれると大らかに思おう
 さて、これまでの各句を紹介しよう。
   
ビール飲む喉の奥から海の青    そら  参加者九名の内作者をのぞく六名の選を得た作品である。折しも酷暑。ビールの爽快な喉越し実感が、下五の「海の青」に凝縮された。なんとも気持ちの良い句だ。
今日も伸び明日ものびる胡瓜かな ほたる ほたるさんは深窓のお嬢さん。それで投句のみ。五名中四名の選。非常に素直である。「俳句は詩的でなければいけない。俳句は省略である。俳句は黄金を打ち延べたような一句一章がいい。そうでなければ、二句一章の異物衝撃がいい」と諸説に右往左往、左見右見して、句会が苦界になりかねない。そういうときにほたるさんの句は新鮮である。聖母マリアのように皆を救う。

幼子の風に吹かれて夏の草      けい けいさんも初心。猛々しい夏草が、柔らかく感じるから不思議である。常識という既成概念は俳句には不必要である。

今塵を拭われし桟今寒し      久保  今を重ねて強調している点が、三人中二人の賛同を得た句である。わたしはそれがくどいと感じて選ばなかった。日常の中の非日常を描いていると解説すればいいのだろうか。

むらがりて地を吸う蝶や瀧しぶき  くに 当日無得点であった。博学の本人の説明に、そういう光景に出会った経験のない一同はフーン。しかし数日後の新聞に、そっくりその情景の写真を見つけ驚いた。近郊の瀧での撮影。蝶は黄筋揚羽。

夏あげは緑の中に黒くある      優
昆虫少年くにさん特選。句会で五句選ぶが、その中でも一番好きなのを特選とする。選句は作句以上に難しい。俳句は少々無責任でも作れる。しかし選句は責任がある。最初は「好きだから」で済むが、毎回それでは気恥ずかしい。国選弁護人のように、いいところを考える。すると、それが自分が俳句を作るときに蘇る。だから選は作句よりも大事であるとは、どの人も言うようだ。

西日中遮断機ふいに降りにけり   えの サラリーマンのえのさんの句は、トリミングがいい。無駄がない。焦点が定まっているので読み手は迷わない。特選二人。
朝になり夜になるよねいやな夏    かづ 夏はいやなのだ。それがどうした?などと言ってはいけない。生まれて初めて作った俳句に乾杯!この素直さは有望株。

うふふっとほほえむえくぼ心太    わか
 痘痕も靨なんだねと、冷やかしてはいけない。俳句で沢山言うと失敗する。このように省略すると、作者の思いが字間ににじむ。

めぐりあう命に夏の空広く     ごん
投句のみ。命という抽象語が惜しい。しかし若いから使えるとも言える。未知の可能性。

プーさんを贈る炎天の郵便車    ひろ
 仮想を現実にする力が俳句にある。それを想像力と呼ぶ。郵便車が生きた。

コンデンスミルクのように春を舐め 聰子 新樹という兼題が出来なくて、苦し紛れの投句が四名中三名の選を得た。やっぱり点が入ると嬉しい。句会が長続きするのは、いつか誰かが僥倖のように選んでくれるからだ。十回参加して、一点も入らないと言うことはあり得ない。だから俳句は遊びである。楽しみである。大いに俳句で遊びましょう。


            ※誌上句会をいたします。※
十月末日までに、俳句を三句お出し下さい。季語があってもなくても構いません。
もし季語を使うのでしたら、秋か冬の季語です。新年もいいでしょう。
 歳時記が手元になくても、普通の国語辞典を引くと、その言葉の季節はいつであるかが親切に載っています。どうぞ楽しんでご投句ください。
 俳句に関するお問い合わせや、拙文へのご質問・ご批評も遠慮なくお寄せ下さい。 

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日本精神神経科診療所協会会誌編集委員会
2000.11 鍬塚聰子