作品展望168「樹」174号を読んで

  楽天的に  悪のススメ          鍬塚 聰子


前号で「笑顔の北九州をつくる会」の呼びかけ人と書いたのだが、あろうことか「代表」に。決まっていた名誉教授がご病気で出来ないのでお願いしますと候補者の三輪俊和さんに頼まれ、軽い気持ちでというか、日記広場を始めてからは、頼まれたらその力は自分にはないと思っても「力は出るもの出せるもの」で、引き受けるという前向きな(損な)性分になっていたからである。とはいっても「わたしがやりましょう」などとは、まだまだ言えない。背中を押され、手を引っ張られと言う状態である。この作品展望もその一例である。さて、「笑顔の北九州をつくる会」発足会では3分間の挨拶を一千名の前でする羽目になった。前日聞かされ、さあ考えた。名前が三輪だから三つの輪。すでに「安心・希望・笑顔」がある。彼は一九四三年三重県生まれとこじつけて「命・暮らし・権利」を守るのが行政と言い切っているのに加え「愛・情・信」の三文字を贈ろうと考えついた。政治にこれがあれば、人々は幸福になるはず。楽天的かもしれないが、信じよう。しかし、新聞には名前が出るし年齢も、だが、その日は六十二歳の誕生日に当たったから、これも天からのプレゼントだと思い直した。
  街騒の夏越の耳に流れくる     山下  整子 
 夏越の祓いは六月晦日に行われる。茅の輪をくぐると邪心を和ませるから「なごし」。境内で軽く身をかがめ、茅の輪をくぐろうとしたら、街のざわめきが聞こえてきた景。ずっと聞こえていたはずなのに気付かず、何かの動作に集中していると、反対にはっきりまわりの音が聞こえるのは、ある。空気が感じられて秀句。「街騒の」は修飾語ではなく、「の」は主語を表す。つまり街騒が「流れくる」のである。ただ「街騒」はどう読めばいいのだろうか。広辞苑にも大辞林にも見つけられなかった。整子さんの造語だろうか。あるいは短歌では使われるのだろうか。

すいっちょと犬と子となく夕間暮  穴井 栄子 
 すいっちょは鳴き、犬は啼き、子は泣いている。それは夕間暮。喧噪の都会ではなく、ゆったりした生活時間が流れている。だから、すいっちょなのだ。馬追と書かなかった栄子さんのセンスが嬉しい。それに「ゆうまぐれ」の音が優しい。「まぐれ」は「目暗」夕方薄暗くてよく見えないから。同じ言葉に誰彼時がある。薄暗くて判らない時に「誰?彼は?」からきた。源氏物語にも見られる言葉。同じく「彼誰時」かわたれどきがある。万葉集に出ているから、これが一番古い言葉だろう。おもに明け方の薄暗い時を言っていたらしい。古語の美しさにわたしたちは、もっと心を向けたい。

  冷汁と畳いっぱい漁師の家    井上 佐知子
 宮崎の冷汁が広辞苑(電子辞書版?)に載っていないのはどうしてだろう。こういう場合はインターネット。まあ、美味しそうなレシピまでたちどころに出てくる。焼き魚をほぐすことと味噌を焼くことが最大のこつ。これに胡瓜の薄切りと胡麻と大葉を散らし、一時間以上冷やせば食べられる。単なる猫飯ではないのだ。漁師の家で冷汁を食している。簡素な漁師の家は、まるで畳だけのようで「畳いっぱい」と佐知子さんは感心したのだろう。話は変わるが、電子辞書が娘たちからの誕生日プレゼント。軽くて誠に便利。しかしあの重い、そして字の小さな辞書を見るのは、別の意味で楽しい。つまり目的の言葉しか出てこない電子辞書に較べると、一度引けばまわりに沢山の言葉があるからだ。ぱらぱらと捲ってみると、知らない言葉にも出会う。そういう楽しみは電子辞書にはないけれど、押すだけでフランス語など七カ国会話もでてくる。感心する。

  白菜を蒔いて妻は饒舌に   合原  正利
 白菜の種をは見たことがないのだが、花はアブラナ科で十字架花だから、大根の種みたいに小さいのだろうか。葉大根と二十日大根以外は、買った苗を植えていたので「蒔く」が新鮮だった。普段寡黙な奥さんが、種蒔きの作業の後、ちょっとお喋りになったことへの夫側の軽い戸惑いが窺える。わたしもそうだが、夫婦二人の生活は目新しいことはあまり起こらない。子どもがいればいろんな会話が必然的に生まれる。もともと人は何かを伝えたい気持ちを持っている。ここでは白菜を育てる事への期待!だから、うんうんとよく聞いてあげてくださいね。

あちこちと身をころがして酷暑かな 佐藤 いわお
 お昼寝の景。本当に暑かったですね。クーラーなしでねようとすると、こういうことになる。

  海へ咲くひまわりタンカーが優しいので 鮫島 康子 タンカーが優しいのでここのひまわりは海へ向いて咲くのだよ。この断定がいい。タンカーと言えば油槽船で、飾り気のない、むしろ無骨。あの大きさなのに乗組員はとても少ないと聞いたことがある。だから「優しい」が響いてくる。人から恐れられていた大男は、実は孤独から不機嫌で凶暴だったのが、ある少年に出会い優しくなったという童話があったが、大男は本来は優しかったのだ。人みな善人と言われるように、人の性質は優しい。俳句をするとその優しさが、よく出てくる。
子の息と鼓動一緒に抱きけり    竹内 卓二
 おかあさーんと駆けてくる子ども。その子をしっかり抱く母。抱く行為は、あなたを全て受け入れますよとの無条件の愛に他ならない。その優しさに包まれたこどもは、優しい心のおとなになる。心のふれあいと言うが、その前にスキンシップが必要である。日本人は慎み深く、人に触れることや触れられる事への遠慮があるようだが、わが子はもっと抱きしめよう。しかし街ではこの暑さにも拘わらず手をつないでいる若い二人を多く見る。羨ましいなあ。

  塩ふって鮎焼く途中日雷      竹原 とき江
 日雷は火神鳴。雨を伴わないので、旱の前兆とも言われる。鮎も日雷も夏の季語だが、鮎に塩をふっている動作と、雷のとどろきの組み合わせは外せない。俳句初心の方に、季語が重ならないように代表が仰るのは、勿体ないからである。季語の奥深さを知れば当然である。だから俳句は面白いのであって、だから季語にもたれた安易な俳句を作りたくないと、季語のない俳句も生まれ、知っていて季語を重ねることもある。この句には作者の表情が見える。二つの季語に負けない作者の力量がある。

  口あけて河馬に九月の雨が降る   林  照代
 河馬と言えば 坪内稔展さん
  桜散るあなたも河馬になりなさい
  河馬になる老人が好き秋日和
  水中の河馬が燃えます牡丹雪
 江戸時代の俳人には作れない河馬の句はユーモラスであり哀愁であり、俳諧味を含む。照代さんの句、いいなあ。

夾竹桃奈良町過ぎて通り雨    弘津 冨士子
 奈良町は中近世の町並みを残し、軒先には庚申信仰の「身代わり猿」が吊されているそうだ。わたしは地名を俳句に読むのは好きなのだが、なかなか出来ない。だからこのように素敵な「奈良町」に憧れる。」
  
  母の背でB29を見た真夏の日   矢野 澄湖
 こういう記憶は語り継がなければいけない。私が押しかけ演出助手の劇団MAMの北九州演劇祭参加作品は「やけのはらから」八幡の空襲で家族は死に、一人助かった少女の体験を熊手クリニック院長(演出)が書き下ろした詩を団員が朗唱する。ピアノ生演奏とからめての音楽劇なのだが、弱いものが必ず犠牲になる社会であっても、人と人とが手を結び心をつなげ希望を持つのは、誰にも妨げられない自然の流れ。それは言葉を他に伝えることから始まる。

  桔梗咲く握り返さぬ母の指    後藤 愛子
 お母様のご逝去お悔やみ申し上げます。母を亡くした悲しみを抑えての俳句。でも慟哭が聞こえます。
 


2006.11  「樹」175号掲載