作品展望167「樹」173号を読んで

 からだを通す 悪のススメ          鍬塚 聰子

 北九州芸術劇場での初舞台は、いい体験だった。台詞は無くても、空気を感じて立ったり、扇を開いたり、パチッと閉じたり、最後には舞台に静かに出て行く。まるまる一週間、出演者十一人と演出、音響、照明その他沢山の人たちとの目に見えないつながり、一体感と言うのだろうか、を感じ、カーテンコールでは涙が出た。この感激があるから、演劇をやるんだなと実感。若いときに体験していたら、きっと深みにはまっていたかもしれない。それくらいの感動だった。しかし緊張は極限だったようで、終わったら「痩せたね」と言われた。確かに指輪が緩くなっていたし、肋間神経痛にもなりかけていた。実は、舞台に立ってもドキドキなどしなかった。落ち着いていたからではなく、余裕がなかったからだ。他の役者さん(私以外は舞台経験者)の身体から出そうとしている言葉を身体で受け取ろうと必死だったから。言葉は、他を動かすために発せられるのだと、演出の鐘下辰男氏は説く。俳句の言葉もそうだ。自分の身体を通して出た言葉は、必ず他に伝わる。伝わらないのは、頭で考えた言葉や観念から生まれた言葉だ。とはいえ、難しい。でも身体を通した言葉は、そこにある。
  夢語る男いて熱帯夜        三輪 瑤美
 若くても年老いても、夢は死ぬまで持ちたいもの。熱帯夜であろうが、それをものともしない情熱がいい。この夏の暑かったこと。居間のエアコンが壊れたので、扇風機のみ。寝るときは氷枕で凌いだ。そのせいだろうか、涼しくなってからの体調がすこぶるとまではいかないが、いい。人間の身体は、自然に任せるのがいいのだろう。ところで、来年の北九州市長選に無所属で立候補したの方が、瑤美さんと同姓なので、驚いている。支援団体「笑顔の北九州をつくる会」の呼びかけ人の一人(あら、これも十一人)としてこれから支持をひろげる。北九州市内の方、棄権しないで投票に行きましょう。私の推す人に投票してくださいと実は言いたいのですが・・・・・

天心をずらしルピナス花盛る    宮川 三保子
 ルピナスはマメ科の多年草。藤の花を逆さにしたようなので「昇り藤」の和名がある。私の好きな絵本に「ルピナスさん」(バーバラ・クーニー作ほるぷ出版)がある。船の舳先に飾る船首像を作るおじいさんの「世の中を美しくするために何かしてもらいたい」という願いを、ずっとずっと持ち続け、ルピナスの種を夏中撒いて歩き、村中をルピナスだらけにしたミス・ランフィアスはみんなからルピナスさんと呼ばれる。ターシャ・テューダーの生き方にも通じて、密かに憧れている。

  蝉鳴いて鳴ききって昼皓くなる    依田 しず子
 白昼と言う言葉がある。ロシアの昔話『美しいワシリーサとババ・ヤガー』に赤い騎士、白い騎士、黒い騎士が出てくる。それぞれ朝、昼、夜なのだ。しかししず子さんの昼は皓。これは「明眸皓歯」と、使われるように「白く光るさま」である。蝉が鳴いて鳴いて鳴ききった静寂には白より皓がぴったりである。言葉はたくさんある。そのどれを選ぶか、自分の身体を通して出てきた言葉は生きている。

  今朝咲きし百合の白さ神の意か   秋山 修恵   聖書のマタイ伝に「イエス様はおっしゃいました。野の1本の百合の花はこのソロモンの栄華にまさると。」とある。花であれ鳥であれ、それらはまさに楽しげである。人間のように屈託がないからだ。自然だからと言ってしまえばおしまいだが、そういう物を目の当たりにしたとき、人は謙遜になる。修恵さんの感動が伝わってくる。ただ「神の意か」と説明してしまったら勿体ない。とはいえ、百合の白さへの感動を、身体に一度通して表現するのは難しい。どうしても頭を通してしまうから。

雷鳴のあとにぽかんと空がある  阿部 禮子 
 雷鳴が轟くと身がすくむものの、稲妻が見えないかしらと必ず空を見上げる。しかし高校時代に見た以上のは見かけなくて、それが心残りだからまだ等分は死ねない。稲妻は「稲の夫」の意味らしい。稲の結実頃に多いので、これによって稲が実ると信じられていたからだろう。だから秋。ところが雷鳴は夏。この違い、ご存知の方教えてください。それで風子さんの「捩花」ですが、捩花を「もじ摺草」とも言うので間違います。「捩(もじ)る」も「捩(ね)じる」も同じです。陸奥信夫郡の特産品のは、石の上に布をおいて、忍草(信夫草?)の葉や茎を摺りつけると、石の文様がまるで捩じれたように布につくから命名されたそうだが、現物を見たことのない私が説明するのはおこがましいことでした。

  炎天や素顔は二つ目の顔で   大田 一明
 二つ目の顔というのが曲者。最近お仕事を辞められたと聞く。天下の素浪人である。すると一つ目の顔は、今までのお仕事用のちょっと気を張っていた顔なのだろう。男は外に七人の敵という古い言葉を思う。作者を知っているから推理もするが、知らなければ炎天でお化粧が取れた素顔は、まったく別人だったという可笑しさもある。
  高原の風真直ぐに糊空木    魚返 サツ子
 糊空木の花は白い。真直ぐな風が似合う。二十五年前の五月、宮崎の山の中でこの白い花をたくさん見た。紫陽花に似ているが、円錐花序だし、大きな木の枝の先に咲いている。帰って調べるとあの原田康子さんの「挽夏」に出てきたサビタの花だった。北海道だけの花ではなく全国的に分布し、糊の成分を樹皮に含んでいて、また枝の中は空洞なので、糊空木と呼ばれる。サビタの硬い根っこでアイヌがパイプに好んで作り、一時流行ったらしいが、サビタはアイヌ語ではなく東北から伝わったということしかわからない。これもご存知の方はご教示ください。

  梨どれも蒙古の風の色に熟れ   沖  隆史    この梨は、手入れの行き届いた梨ではない。袋もかけられてはいない。日田の大山が、まだ貧しい村だったころのことだ。五十年前、そういう木に登って本を読んでいた。梨のざらついた色は、蒙古の風の色だ。確かにそうだ。

  満水の湖水吸いすい夏つばめ   木村 賢慈    つばめがすいすい飛んでいる。あっ、湖水すれすれだ。、まるで水を吸っているみたいだ!「水吸いすい」と遊んだ俳句。こういうのは楽しい。『樹』にこんなふうに遊んだ俳句がもっとあってほしい。俳句の句に「苦」を当てる人は多いが、そんな親父ギャグはやめて楽しく!
夏休み蛹のようにふて寝の子   澄 たから
 親からどんどん離れていく子。親はどうしようもなく見守るだけ。次男が高校生のころ、まあ寝ること寝ること。家でも寝、おまけに学校でも寝ていた。衣食住をちゃんとやるのが親の務め!と割り切りましたね(遠い目)たからさんの切ない気持ちは「蛹」に現れています。蛹は見事な蝶になる。

  大群の小蟹横切る豊の国      宗  五朗
 こういう光景を見たいなあと、ずっと思っています。ほかには川を渡る大群の蝶。三十年前(今回はやたらに古い話ばかりで)ブラジルのお土産はモルフォ メネラウス という青く輝く蝶百頭以上の壁掛けだった。その大群がアマゾン川を渡るのだそうだ。しかし日本人向けのお土産用にごっそり取られ、また密林の伐採で、今はそういう光景が見られなくなったらしい。豊の国の大群の小蟹はまさか親の仇討ちにさるのばんばへ行くのでは?

  押し寄せる西日ケチャップ叩いて出す 堀井芙佐子  家を見るとき「ここは西日が当たる」と何気なく使うが、西日は夏の季語。真夏の炎暑が衰えない頃の夕日。だから残り少ないケチャップを出している動作が、まことに密接である。こんなことで苛立つ必要はないのだけれど、執拗に壜を叩いているわ・た・し。   


2006.10  「樹」174号掲載