作品展望166「樹」172号を読んで

 声も出さずに 悪のススメ          鍬塚 聰子


 瓢箪から駒、六十数名の中からの十一人にオーディションで選ばれ辞退する理由もなく覚悟を決めて十四日から十八日まで一日八時間の稽古後、十九日・二十日の公演。北九州芸術劇場リーディングセッションで三島由紀夫作で近代能楽集の『弱法師』『斑女』を鐘下辰男氏の演出「声に出して読むドラマシリーズ」生演奏のジョイントで観客として興味ある内容だが、読む側になろうとは・・・日記広場のお母さんから「これどうですか」と応募用紙を渡され、落ちて元々話の種と軽い気持ちで受けた。北九州の朗読界では名の知れた方が同じ組にいて、これは駄目だと思ってもどきどきは収まらなかったけれど、そちらは落ちてわたしは一次合格。二次は二十人。みんな若い。役柄は四十代以下のようなので、この時点でもう×と思い、気楽に声が出せた。ところが合格。理由は「存在感がある」とのこと。喜んでいいのだろうねぇ。それよりもっと嬉しかったのは出演料が出ること。乏しい年金のその脛齧りの身としては現金収入は現金に嬉しい。今日台本が届いたが、どうやら一番最後に登場する老婆二人の一人で存在感を示すようだ。台詞なしでただ舞台に登場するだけでギャラ貰っていいのかな。
 この猛暑・酷暑・熱暑・激暑・極暑のなかの向日葵の健気さに、向日葵の句を取り上げてみる。
  天に向けひまわりさく志        秋山 修恵
向日葵の志は天に向かって咲くこと。それを見る私たちは「志を持ちたいなあ」と思う。マーガレット・ワイズ・ブラウン作レナード・ワイズガード絵うちだややこ訳「たいせつなこと」を思い出す。グラスは向こうが透けて見えること。ヒナギクは白いこと。草は輝く緑であること。風は吹くこと。林檎はたっぷり丸いこと。雪はかわらず白いこと。空はいつもそこにあること。靴は足を包むこと。そして「あなたにとってたいせつなのは あなたがあなたであること」なんだか力が出ないなあ、そんなとき、この本をゆっくり読む。声に出して読んでいく。そして「あなたがあなたであること」と読み終えたら、慰められ少し生き返った私が居る。

  ひまわりの陽気の陰に闇眠る    江島 ひろみ
 陽と陰は表裏である。向日葵の陽気さは気持ちがいい。がイタリア映画「ひまわり」の冒頭シーンの咲き誇るひまわりの明るさの陰には悲劇がある。それはたった一本さくひまわりでh絶対に感じられないだろう。群れ咲くひまわりの陰に闇は眠るのだから。ところで陰陽師とか陰陽道とか聞かれたことがあると思う。これは陰の数、陽の数で吉凶をい占うのであるが、どちらが奇数でどちらが偶数かを尋ねると大半の方が、偶数は陽の数と答える。日本人は偶数好きなのである。まず一が基本であることを知れば、陽の反対が陰であるから、一,三,五,七,九が陽の数であるとしれる。実は九月九日は陽の数が重なるから重陽の節句と言われ、別名菊の節句なのだが、おひな様や鯉のぼりや七夕の願いの短冊のように人に知られていない。九月生まれだからだろうか、重陽の節句を宣伝する次第。

ひまわりは横向きが好きみんな好き 鮫島 康子
 ひまわりは横向きに咲くのが好きなのである。そういえばひまわりは薔薇やカーネーションのようではない。インターネットでひまわりを検索して出た写真はみな横向きだった。念を押すが、康子さん好みが横向きひまわりと言う意味ではない。わかりやすい例を出すと「夏はかき氷が好き」と康子さんが言ったなら、ああ、康子さんはかき氷が好きなんだなと人は思う。夏さんがかき氷が好きなんだなとは誰も思わない。しかしこの句では康子さんは「ひまわりは横向きに咲くのが好きなんだ」と発見されたのだ。でも、康子さんはどんなひまわりだって好きだよとひまわりに呼びかけている。このおおらかさがいいなあ。
  ひまわりは天に向かってお辞儀する 白水チカ子
 この暑さで、ひまわりが少し項垂れているのだろうか。それをお辞儀しているというのは、なんだか賢治童話のようで、少し姿勢を正してにっこりする。
  向日葵が塀の向こうで笑ってる 禅 智子
 昔は塀から顔をだす向日葵はざらだった。町中でも鶏を飼い、鶏糞は向日葵を大きく育てる。今頃は種も矮小化の大きくならないばかりだ。日記広場でも六年前までは大きな植木鉢を用意して、支柱も二メートルのを買って、育てていたが、台風で咲くまでに至らなくなってからは、大きな向日葵の種が手に入らなくて、中断している。こんな風景は懐かしい。
  向日葵は千本の旗印なり  古永 房代
インターネットで北海道の名寄の向日葵畑を見た。何万本もの向日葵だった。これを「一万本の旗印」とするとどうなるのだろう。威勢のいい向日葵しか見えてこない。千本という弱小集団のいささか心細いけれど何かに向かっている庶民の姿が浮かび上がる。「百本」だとどうだろう。これは意外と結束力がある集団だ。と、わたしは思うのだが、各人各位の受け取りようがあるだろう。数字は俳句では難しい。たとえば四は死に通じるという安易なイメージには寄りかかりたくないけれど、それを超えるだけのイメージを作り出すには個人の力ではとうてい及ばない部分がある。普遍性との戦いが俳句なのかな。
  雨蛙昔鱗がありました     堀井  芙佐子
 生物学的にはですね、などと言わないでほしい。人間は昔は海の中にいたんだ、鰓呼吸していたんだと聞いたとき、泳げない私は信じられなかった。しかし年月が経て、この世には不可思議なことはいっぱいあることを知ると、そういうこともあるよねと受け入れる。だから、雨蛙に鱗があったかもしれないよねと嬉しくなる。この句の思い切りの良さが嬉しい。

  看護士も昇降機も夏車椅子   足立  雅泉
 今は夏なんだから、当たり前だと見過ごさないでほしい。看護士の額の汗、クーラーの病室から昇降機に乗ると、熱気が・・・頸椎圧迫骨折での車椅子の制限された生活に看護士と昇降機の夏を感じたからこの句が生まれた。
 
  右に猫左にきっと風車     佐藤  敏彦
 不思議な句である。右に猫が居る。いつもの猫。だから、見なくても左には風車がある!と敏彦さんにはわかる。その情景が浮かんでくる人にとっては不思議でも何でもない句なのだろう。我が家に三歳になるもも太郎という猫が居るし、近辺には野良猫もいる。しかし風車は滅多にお目にかからないから不思議なのだ。鯉のぼりの天辺に付いている風車のことだろうか。それとも作者の独断なのだろうか。謎めいているので心惹かれた。
  潸潸たりこんなかたちの蝉の殻   瀧  春樹  
上五の形容動詞が読み取れなくて時間がかかった。さんずいにくさかんむりと見たのだった。去年作っためがねが合わないようで、裸眼で五センチに近づけて読み取れた。「さんさん」と読む。雨がぱらぱらと降る様子。そこからはらはらと涙を流す意にもなる。蝉は七年十年と地中で出たら一週間の命なのでみな哀れと言う。が、それは人間の何十年の命と較べるからであって、蝉はそれを当然として生きている。「潸潸たり」と「こんなかたち」のつながり
の謎に立ち止まる。

  金蛇や母にわけなくしかられる  宮本岳幸
 金蛇といっても蛇ではなくトカゲである。絵本にも登場し、日記広場のMちゃんのお気に入りである。しかしトカゲ類にきゃーという母親は多い。だから、岳幸くんは、なんでお母さんが僕をしかるのか判らないでいる。これは単に金蛇だけではない。価値観や美意識や、微妙なところで男の子が母親を理解できない一端である。それを感じるものだから千賀子さんは
  やわらかな母でいるため枇杷を剥く
のである。わけなく叱ったつもりではないのだが、やっぱりよく考えると感情的だったかもしれない、そういうことを考えながら、枇杷を剥く。一滴二滴としたたる汁は甘い後悔である。しかし母親の特権でもある。  

2006.9  「樹」173号掲載