作品展望164「樹」170号を読んで

   ポピー色に 悪のススメ          鍬塚 聰子
 ポピーは大好きな花である。罌粟、あるいは虞美人草とも言われる。昔(今もあるのかな)ひよこのポピー というお菓子が、歌とともにはやった。三十一年前のこと、五月五日生まれの長女の出産見舞いにこのお菓子をいただいた。ポピーが揺れている図柄はいまも思い出せる。芙佐子さんの句集にもこの花が揺れている。衒いのないお人柄そのままの題である。実は小さな句集を作ろうと去年思い立った。申し訳ないのだが書心社ではなく、こそは出版である。こそは出版は精神障害者が自立したいけれど就職先がない、では自分たちで会社を作ろうと立ち上げたもの。グランパ句会六年のつきあいもあり応援したい。ところが題が決まらない。だから『ポピー色の風』をいただいて参った。このようにさりげなく気負いなく題がつけられる自然体に参った。滝代表が「句集の題がいい」とほめられている通りだ。俳句もしかり。過去現在未来が透徹。
  ポピー色の風明日に吹く  聰子
 余談だが「聰子の日記広場たより」五百号の記念品はこそは出版にお願いした。おたよりの隅につけている草花のカットを配したメモ帳である。鍛錬句会でお渡しします。
  青葉騒どこへも行かず誰も来ぬ    古永 房代
 青葉がさわさわ揺れ騒いでいるが静かな何もない一日、しかし心が少し騒いでいる屈折がよく表れている。人の訪れる予定も、自分が出かける予定もない。静かなんだけれど、ふと鬱屈した心に気付いたとき、この句が生まれたような気がする。

  人にはぐれ地図にはぐれし薄暑かな  堀井芙佐子
 人にはぐれる薄暑はありふれている。ところが「地図にはぐれ」を加えることで、頼りない心持ちが伝わってくる。ここに「地図」という具象があるからだ。それに「薄暑」の季語の配し方がうまい。さっきの房代さんの「青葉騒」もそうだ。季語を選ぶことで俳句の三分の二は出来上がる。それだけ便利なものだから、安易に使われることが多い。お二人のように倦まず弛まずたくさん作られていると、季語が「使って!」とすり寄ってくるのではないだろうか?

  青時雨れ姿勢ただして読む手紙  山下 整子
 手紙は郵便受けに見つけたときから心躍りがする。階段の途中で(我が家は4階)つい開けてしまうこともある。整子さんは丹念に鋏で封を切るタイプだろう。この手紙の内容は、吉にしても凶にしても、書き手の凜とした精神が伝わる手紙だったから、読む途中で姿勢を正しくした整子さん。言葉を正しく受け止める整子さんの姿そのものが表れている。時雨れと送りがながあるのは動詞で、名詞は時雨。

  伊勢海老はせんべいになる花は葉に  穴井 栄子
 これは♪食べ出したらやめられない♪かっぱえびせん♪ではなく、海老の姿が焼き付いている上等な煎餅だろう。
花が葉になるように伊勢海老も煎餅になるというのが面白い。こういう軽みの俳句もまたいい。

  飛魚の鰭透きとおらせて売られけり 井上 ちかえ
 飛び魚の新しさが鰭の透き通り具合でわかる。飛び魚が静かに横たわって売られているのは、それは人間の営みの常であっても、一種のもの哀しさを誘う。気になるのが「透きとおら」せて「売られ」のラ音の重なり。飛び魚自身の意志で鰭が透きとおっているわけで、そうやって売られているのだから意味としてはなんら食い違いはないはずなのだが、ラ音の羅列にかすかな違和感を感じてしまう。なぜなのだろう。

  無意識の裡に金魚は媚びている   江嶋ひろみ
 金魚は鮒を観賞用に品種改良したもの。十六世紀に中国からもたらされ、江戸市民の愛玩物になり、日本の伝統にとけ込んでしまっている。同じように西洋にも渡っていったのだが、そこではオリエンタルな興味をそそらせる対象物だったようだ。アンリ・マティス 「金魚」が有名。で、下句の「金魚は媚びている」の発見がすばらしい。あのはなやかな姿態、泳ぎ方、まったく媚びているとは言い得ている。そこで「無意識の裡」という説明が惜しい。金魚に媚びるという意志はない。人間にそうさせられただけであるし、「媚びているようだ」と感じる人間がいるだけだから。

  万緑の半島仁王の力瘤        小野 カズ
 @万緑の半島はまるで仁王の力瘤のようだ。
 A今わたしは万緑の半島にいて、仁王の力瘤を眺めている。わたしは断然@説。この半島は国東半島?朝鮮半島?鳥瞰図で半島を眺めたら、それこそ仁王の力瘤を想起したという取り方をしたい。喩である。楽しい力強い喩。見事。

  石橋の町じゃがたら芋の花      沖 隆史
 カズさんの俳句と形は同じ。ここには喩はない。石橋の町にじゃがたら芋の花が咲いていた、ただそれだけのことだが、妙に心に響いてくる。多くを言わず、説明せず、ただそれだけを切り取っているからだろう。
  馬鈴薯の花の暮らしをみています   神無 月代
 馬鈴薯は茄子科の植物だから、茄子の花に似ている。調理しそこねた馬鈴薯から芽が出たので、土に埋めたら葉が出て花が咲いたのが、はじめての馬鈴薯に花とのご対面だった。派手さが全くなく、生活感のある花。月代さんはこの一年で五百枚の絵手紙を描かれた。俳句や寸句を添えていただく葉書はすばらしい。もっとたくさんの人に見てもらいたいと強引に薦める。それで六年ぶりに開く「第五回日記広場展」のコーナーに「ありがとうの絵手紙展」を解説。とても評判が良かった。子どもの日記や日記広場の様子を撮した写真なども良かったが、子どもの絵日記に圧倒されて進んだ奥にある絵手紙コーナーは、ほっとすると見た方みんな言われる。ゆんたす珈琲店に一明さんの手でプリントした絵はがきを置いているが、すぐ品切れになるほど好評なのである。花の暮らしを見て、絵にする心は素敵!

  麦秋やこんがり焼ける昼の月    小森 清次
 豊かに実っている麦畑の上の昼の月がこんがり焼けそうだ。ゴッホの油絵風の光景。これはきっとパン用の小麦なのかもしれない。
  
  走り梅雨象のまばたき見てしまう  佐藤 綾子
 象はどんな風に瞬きするのだろう。綾子さんはふと象の瞬きを見てしまった。なんだか象の秘密をしったようで、嬉しいような象に気の毒なような、そんな気分になられたのだろう。本格的な梅雨の前のぐずついたお天気が、その気分をよく表している。
 
  睨めっこしてもトマトはトマトなり  土居 房子
 房子さんはトマトと睨めっこして、なんの魔法をかけたかったのかしらと楽しくなる。カボチャだったら馬車だけれども、トマトは?トマトといえば鮫島さんの トマト食す哀しいほどに自由なり がすぐ出てくる。この句を知って以来トマトで句は作れない。だから房子さんのこの句が楽しかった。

  人形の着物縫ふ祖母や初蛍      姫野  恭子
  五月晴れさあ人形の服裁ちましょう 弘津 冨士子
 恭子さんは人形の、冨士子さんは人形の服。季語は初蛍のはかなさと、五月晴れの明るさ。これが客観と主観をよく表している。恭子さんのは祖母への愛情と郷愁、冨士子さんのは「さあ、今から縫いますよ」弾むような心持ち。

  陽は山を昇り馬鈴薯の花に落つ    野田 直美
 不思議な句である。当初朝日が山から出て、その光が馬鈴薯の花にかかったと思ったが、朝出た日が、夕方馬鈴薯に落ちたというのだろうか。瞬間なのか一日なのかよくわからないところが魅力なのだろうか。

2006.8  「樹」172号掲載