作品展望164「樹」170号を読んで

   500号迎えて 悪のススメ          鍬塚 聰子
       
 えっ、五〇〇?はい、『聰子の日記広場たより』が五〇〇号を迎える。一〇〇号は一九九七年、瀧代表ご夫妻も来て下さった。二〇〇回は一九九九年。この計算で行けば二〇〇四年が五〇〇号なのだが、どうも昔から計算に弱く、今流行の「おとなのDSトレーニング」の計算問題をしたら脳年齢が六七歳と出た、それで今年に・・・というのは冗談で、八年目までは年に四九回発行していたが、雑用が増えて年三〇回に減ったのだ。戸畑の生涯学習センター一階市民ギャラリーは無料だしピアノもあるので、会期(七月六日〜十一日)中の日曜日の九日は午後一時から小さな集いをする。こどもたちの人形劇「さんびきのやぎのがらがらどん」や若木集にも俳句を出したことのある有紗ちゃん(小五)のピアノとわたしの朗読で「ピーターと狼」美禄句会句会で山桃の句で高点をとった芸名小絵夢ちゃん(小六)の落語。その母小きみさんの南京玉すだれと篠笛。ジリムトさんの馬頭琴と唄。若い女性グループ「紫音」の演奏。飛び入り歓迎です。一芸のある方どうぞお出かけ下さい。そして子どもの日記も見てください。月代さんの絵手紙コーナーも、記念品もあります。   
  穀雨の虚空蔵の黒暗暗たる暮色     姫野 恭子
 上五の「こくう」に続けての「虚空蔵」は偶然ではあるまい。虚空蔵菩薩は虚空がすべてを蔵するように、無量の智慧と福徳をそなえているの意で、人々にこれらを与え、願いを満たし救うという菩薩。K音の重なりに「暗暗たる暮色」がむしろほの明るさを持つ不思議な句だ。恭子さんのブログ「かささぎの旗」は虚空蔵菩薩に守られているような気がする。

  新緑や歯科技工士の四白眼      広重 静澄
 三白眼は黒目が上方にかたよって、左右と下部の三方に白目のあるもので、凶相として悪口みたいに使うのだが、四白眼は初めてお目にかかる。調べると、アイメイクの教科書に「三白眼よりさらに黒目が小さいケ-スを四白眼という。残忍な性格に見られやすく、ちょとした発言でトラブルに巻き込まれやすく人間関係で、誤解を招きやすい」とある。で、それが歯科技工士だった。ひょっとして松本清張の作品に四白眼の歯科技工士が出てくるとか?あったら面白いね、静澄さん。
  立ち止まるべし桐の花より暮るる   古永 房代
今年は春に逆行して長野へ行ったせいか、桐の花を見なかった。木が少なくなったのかも知れない。戸畑駅近くの駐車場に桐の木があって「あら咲いてる」と嬉しかったのだが、去年切られてしまった。だから「立ち止まるべし」の断定が心地よい。暮色のなか桐の花を見上げている房代さんが浮かぶ。下五が気になる。文語では「暮るる」は名詞に形だから連なる形だから「暮るる時」とかなにか後にに来てしまうからここで終らない。終らせようとしたら「暮る」口語は「暮れる」

  サーカスのテント真白や春暮るる   宮本 千賀子
 サーカスの白いテントが暮れなずむ光の中に浮かび・・懐かしい情景。これも「暮れる春」或いは「暮るる春」

  春暁やごはんの炊けるいいにおい    呆 夢
 こんな素直な句に心惹かれる。幸福な句。

  さみしさの塊となる薊かな      山下 整子  「山には山の憂いあり/海には海の悲しみや/まして心の花園に/咲きし薊の花ならば」という古い歌を整子さんはご存じなのだろうか。あのトゲトゲに身を固めている薊は実はさみしさの塊なんだという感性が素敵だ。歌を知ってこう詠んだのなら、もっと素敵。
  雛罌粟はぽよんぽよんの風が好き   依田 しず子 四月号でしず子さんの 「ずんっと」が好きで取上げたがこの「ぽよんぽよん」もポピーの可憐さになんとぴったりではないか。また歌になるが「かあさんお肩を叩きましょ」に「真っ赤な罌粟も揺れている」とあるが、罌粟が風でぽよんと揺れているのではなく「ぽよん」と吹く風を罌粟が好きなんだという作者の独断が好ましい。こういう発想の転換をすると、俳句は楽しく作れるのだからみなさん、正面から真面目に見るのでなく、例えば風に揺れる罌粟になってみたり、想像をたくましくしてみましょう。

  谷間を渡りて風は春になる     穴井  栄子
 通り過ぎかけて、戻って詠むと味わいがある。説得力がある。そうか春の風が突然吹くのではなく、谷間を渡っている間に、風は春になるのだ。いいなあ、このメルヘン。

  孫の手をひく九条は楠若葉     足立  雅泉
 九条を守る会は全国的に広がっている。わたしも「九条を守る戸畑区民の会」の世話人のひとり。「九条は楠若葉」の断定が快い。断固たる意志を感じる。もっと社会俳句が樹集に載ると面白いなあ。

   想定の内にも外にも豆の花      沖  隆史
 いたいた、もうひとり社会俳句作者。真っ向から社会現象を詠むと標語になる。川柳っぽく余裕をかまさなければ味気なくなる。肩肘張らずしかし流されず、という好句。

  春愁の四角な顔を剃っている      大田 一明
 脂がのっているなあ。毎月課題句の選句をされていることも関係するだろう。春愁の単色に、一色屈折を加える旨さは、樹集一。それでいて「日本のお父さん(恭子さんのことば)」の無骨さと温かさがある。だからそれは
  莢豌豆しゃきしゃき行く末噛んでいる
にも色濃く表れている。莢豌豆をしゃきしゃき噛むようには行く末は噛めないのだが、まあいいやという諦めの中の明るさが不思議。

  万緑の小さき空はこそばゆい    澄  たから
「小さき空」とは緑陰にいて木漏れ日ちらちらの空を見上げたときの感触だろう。「こそばゆい」がとてもいい。ただ「小さき」は文語「こそばゆい」は口語。「小さい」と「こそばゆい」が重なるから無意識に避けたのかも知れないな。「小さな」は?

  風光るみどりひかりつ迷路かな   徳永 義子
 たからさんの感覚と同じだ。風が吹いて青葉若葉がちらちらと光る様子を、まるで迷路のようだと義子さんは想う。この喩がいい。たからさんも違う場所時間なのに、同じ光景を見て「こそばゆい」と感じた。このようなとらえ方の違う俳句が出来ることが素晴らしいではないか。樹集あればこその出会いが嬉しい。気持ちの良い五月晴れが少なかったので、こういう句に心惹かれる。

  菜種梅雨まみどりに妻眠るかな   瀧  春樹
なんといっても「まみどり」がいい。まみどりに「ま」は真正面、真っ正直の「ま」である。眠りの深さがそこにある。そして見守られる安心に包まれた眠りを想う。

  めす猫よも少しぎょうぎよく毛づくろい 夏田 風子
 めす猫なんだからちょっと行儀良くしなさいよなんて、ジェンダーだよと目くじら立てるまい。我が家のもも太郎は雄猫だが、行儀悪いねと思ったことはない。これも一種のジェンダーなのかも知れないなあ。

  新緑や久々の友に敬語言う      角  賢典
 連休あけて久しぶりの戸惑いがよく出ている。実体験の素直な句。でも一つ良ければ次を望むおばさんの悪い癖で、気になるのが「敬語言う」の「言う」。新緑やの上五を「楠若葉」にして「や」を外すと最後が「敬語かな」でOK。 俳句はいかに省略するかが面白みでもある、とも知って下さい。こうやって毎月出していると、飾らなくてもその言葉で自立する強さをいつか実感するでしょう。

2006.7  「樹」171号掲載