作品展望163「樹」169号を読んで

   薔薇の季節に 悪のスス          鍬塚 聰子        
 ベランダに薔薇が咲いた。カクテルという一重の紅の薔薇だ。薔薇はあの花びらの多さが愛されるが、わたしは野薔薇のような一重が好き。十二年前日記広場の家庭訪問で、咲いたカクテルを日記広場の子どもに一本ずつ渡したことがある。ところがその薔薇を枯らしてしまい、四年前に同じ品種をやっと見つけた。なにしろ金に糸目がついているので安いのしか買わないのだ。それが今年は良く咲いている。七月に「聰子の日記広場五〇〇回展」をするので、祝意を表明してくれていると勝手に喜んでいる。薔薇の詩人であるリルケは「一輪の薔薇はそれだけでたくさんの薔薇だ」と歌い、薔薇の刺が刺さって死んだという。少女漫画『キャンディーキャンディー』の原作者はリルケに憧れて、孤児院で育ったキャンディーが恋したアンソニーを、バラ園で死なせる予定だったが、それではインパクトがないという編集部の注文で落馬事故にしたそうだ。リルケは薔薇の刺の傷が原因の急性白血病になり五一歳で死亡。三〇歳頃はロダンの秘書だったそうだ。薔薇の刺で死ぬなんてロマンチックだがあり得ないので、バラ園に撒いた殺虫剤でのショック死が原作者の現実的な案だったらしい。  
野ばら口遊み野ばら摘むふるさと   林  照代
 近藤朔風作詞の「野中の薔薇」の二番がいい。童が思い出に君を折るよと歌いかけると、薔薇は「手折らば手折れ思出草に君を刺さん」と答えている。シューベルトの影響を受けてウェルナーは作曲。原詩はゲーテ。毎号山野草について詩情豊かに書かれている照代さんの原点がここにあるのだろう。

  春灯や祖母愛用の牡丹刷毛    弘津 冨士子
 日本舞踊をなさるお祖母様なのだろう。牡丹刷毛は顔や首に塗った白練りを伸ばす、というより水分を吸い取るようにして使うそうだ。板刷毛とちがってふわっと牡丹の花のようだから牡丹刷毛。スポンジでぱたぱたやる現代と趣は全く違うだろうなと憧れる。

  初蝶に声を落とせし男かな    古永  房代
 蝶をこの頃見かけない。生協で買ったキャベツから紋白蝶が生まれたのは、大学院生の次男が赤ちゃんの頃だった。だから初蝶に声を潜める男の姿が好ましい。黒崎のグランパ句会でも 満開の闇にて人は声落とす 野捨次郎 とあり「声落とす」は小声になったというより、本当に声を落とした、つまり声をなくしたとも言えるとの解釈もあり、読み手はどちらも想像し、好きな方に落ち着かせるだろう。正確に言えば「音量や音速を落とす」だが慣用的に小声になることを言うのだから、読み手にゆだねられた句。そのどちらの場合でも「感動」している男が浮かぶ。好漢。

  一人立ち二人座る汗のジャズ奏者  足立 雅泉
 若い頃ジャズ演奏をきき、あれがジャムセッションと教えられ感動したことがある。即興演奏らしい。雅泉さんもそういう場面に心動かされたのだろう。沖縄の「童神」のあとふとジャズに心惹かれ、フランクシ・ナトラではなくミルドレッド・ベイリー風の「all of me」をレッスン中。まだまだ音符通りにしか歌えないが、ここはサラ・ボーンみたいにとか変化させられるといいなあと夢想している。

  春の海ひとりふたりと旅に出る   井上 佐知子
 美禄句会の新人だった佐知子さんもベテランになってきた。寡作だけれど味わい深いのが生まれている。句会に出した五句を推敲して樹集に出されていると聞く。やはりその修練が佳作を生むのだろう。春の海のゆったりさが増幅するように「ひとりふたり」を平仮名にしたのは意図的ではなく、次第に磨かれたきた感性の賜だろう。
  新しき町の名読めば陽炎いぬ    井上 ちかえ
 合併やなにやかやでいとも簡単に古い町名が消える。ちかえさんの戸惑いや寂寥感が「陽炎いぬ」に集約されている。
 
  藪椿エステサロンの窓明り   魚返 サツ子
 無料体験をどうぞと電話があったので、某エステサロンに連休明けの三時間を過ごす。気になるのはお顔ですかお身体ですかと問われ、ハタと困った。気になると言えば全部だし、普段は何も気にしていないんだし・・・ということで全体マッサージの希望を出す。高千穂で見つけ出されたエネルギーのある石が貼られた四〇℃のサウナで二〇分汗をだし、次はミストにかかる。それからアロマオイルたっぷりのマッサージ。眠っていた。それは去年新設の明るいエステだったが、サツ子さんのエステは「藪椿」を措くことで少し古びた洋館を想起させる。外は古いけれど中はエステという新しさ。 

  つくづくし摘んでは見てる隣の子  魚返 美夏
 早春土筆が土から顔を出すのは土を突く、突くと感動を覚えるから、土筆はむかしは「つくづくし」と呼ばれていたことは肯ける。言葉は都を中心にして大きく輪を描いて広がっていくそうだ。美しいはビューティフルだが、プリティの意味で幼子を誉めて「うつくしか」と使う地方もあるのはその好例。美夏さんはサツ子さんと良く摘んでるから、あっここにもあそこにも、と次々に摘んでいくが、今日はじめて土筆を摘む子は「つくづく」眺め、本当にこれが食べられるのかしらと半信半疑で時間をかけて摘んでいたに違いない。そういう情景まで浮かぶいい句だ。おとなにない感性。五月グランパ句会初参加の小六美希ちゃんが
句歴十年のおとなを尻目に高点句となったのと同じ理由かも知れない。兼題が休日で、山桃のシーズンにはいつも木に登って枝揺すって実を落としているから 休日に山桃の実をゆすります 美希 が生まれた。あれこれ策を弄せず、実体験を素直に読むことで、言葉が本来持っている魂の力が読み手に伝わるのだ。

  美しき日本語あり櫻あり    小野  カズ
 これはひっそりとしかし爛漫と咲く櫻を見てのカズさんの実感。花見と称する焼き肉カラオケセットはバブル期の副産物なのだろうか?最近満開の昼間は花見に行かないのでどのようになっているか、しかもノーテレビなので判らないが、古来からの美意識とは相容れない。花見といういれものにごちゃ混ぜの文化を押し込んだのが近年の花見だが、それが日本人の文化なのだと胸を張られて言われれば「はいそうですか」と引き下がりつついや、違うんだよね、と呟く日本人になっていないだろうか。文化に自信を持ち、それを子孫に伝えられる先人になりたいものだ。
  松の種蒔く函館の魚箱に      木村  賢慈
 そのままの俳句だと言われればそうなのだが「函館の魚箱に」と九州で聞くと、なんだか味がある。地名へのわたしたちのロマンがあるからだろう。大いに地名を使って詩心を満たすのも面白い。

  少女老いてさくらさくらと吹かれている 鮫島 康子
 知らない人から「おばあちゃん」と言われたら失敬なと怒るパワーは少女である。少女も少し老いるのだが、さくらに吹かれていたら、少し若返ってくるのである。

  れんげ草摘んで童女に還るかな   白水 チカ子
 康子さんの少女とチカ子さんの童女は同じだろうか。童女に還るということは、また元の年に戻るということ?少女は老いても少女。一見理屈に合わないことでも康子さんが言われると、なんとなく納得してしまう。これも言葉の力なのだろう。

  ゆっさゆっさ木が騒ぎ出し桜散る  野田 直美
 櫻が散るのは風のせいではありません、木が、ほらあんなに騒いでいるからですよと直美さんは言う。そうなのだ。少々の雨風では桜は散らない。風に散る格好はするが全部ではない。桜の樹自体が、おいおいもういいよ、散っていいよと騒ぐから、あんなにはらはらと散るのだ。

2006.6  「樹」170号掲載