作品展望160「樹」166号を読んで

     やろうぜ  悪のススメ          
 二月十八日に黒崎ホールで『「二月のともしび」真冬に詩はいかが?』がある。羽犬塚結さんの若い頃からの友人松橋登さんが宮澤賢治の『よだかの星』を朗読し、劇団MAM(精神科関連の施設を利用している「当事者」で一九九七年に結成。街の中で「共に生きる」道を探り、演劇を楽しむ。Make A Mobe(やろうぜ)の略)の八人が詩を朗読、そののバックにショスタコービッチのプレリュードを演奏するTさん、そして私もナレーション担当。松橋登さんの演劇も映画(吉永小百合の映画上の最初のキスの相手とか天知茂と共演)も見たことはないのだが、映画雑誌で見かけたのだろう、それ以来大好きな人。ずっと昔「白痴」のムイシュキン公爵(三大無垢の一)をされ、それで憧れた人も多いと聞く。劇場公演が多くテレビにあまり出ないから、「あの松橋登さん」と言ってもふーんという人が多くてもどかしい。NHK人形劇の“三国志”の趙雲や何人かの武将、そしてあの“ラストエンペラー”のジョン・ローン演じる主人公溥儀の声優さんでもある。私は昔からアクセントコンプレックスなので、憧れの方と同じ舞台に上がるのはどきどきなのだが”やろうぜ”
  一回りしても冬田は無表情 仲  三千子
 冬の田は無表情である。でも、一回りしたとき三千子さんの内部には変化があった。それは動いたからちょっと暖まったのかも知れないし、心が軽くなったのかも知れない。それなのに冬田は「無表情」だったという真実。人間が全ての頂点だという思いこみから、現代の問題が生まれてきている。人間は自然の生態系の一部にしか過ぎないのだという真実の発見を、この句に感じて心惹かれた。

  鳥はみなどこに詣でに出かけたか      風子
誰彼と挨拶したい、そんな素直な気持ちになる元旦、ふと気づくと鳥の鳴き声がしない。どこにお参りに行ったのかな?という風子さんのつぶやきが俳句になった。こういう俳句を作りたいなあと、憧れる。

  やわらかき隣人ありて冬菫     野田 直美
どんなお人なのだろう。きっと素敵な人なのだろう、と思うのだが、「やわらかき隣人」が具体のようで抽象のようで私には分かりにくい。多分直美さんは「冬菫のように感じのいい人」という気持ちだったろう。しかし「やわらかき」にはしたたかさも入らないだろうか。「お手柔らかに」と使うとき、相手の手強さが念頭にあるような気がする。どうして拘るかというと「冬菫」の持つ強さを思うからだ。が、今は年中パンジーだのビオラだの咲いているから、これは考えすぎだろうか。

一月の蠅取紙の淑気かな     姫野 恭子
 淑気とは、新春四辺に満ちている瑞祥の気。新年の季語だから「一月」は季重なり?しかし「一月の蠅取紙」は動かせない。「淑気」も外せない。がっぷり四つに組んでいるのだ。一月に蠅取紙は無用の長物で、多分取り外し忘れたものがぶら下がっているのだろう。しかしそこに淑気が満ちていたと恭子さんは感じた。その感じ方が一番大事で、その真実の強さがこの句に満ちている。

  水仙やリヤカー錆付く納屋の裏   古永 房代
 美禄句会は二月は吟行で門司の白野江植物園で水仙鑑賞。去年は水仙は早くに咲いたが、今年はこれからのようだった。山の頂上まで植えられた水仙の香りは、冬の景物。その水仙とリヤカーの錆が絵画的に眼前に浮かぶ。日常生活とは俳句が密着しているからだろう。「樹」俳句賞おめでとうございます。これからも「直感」を大切にして楽しい句作を続けて下さい。
  冬キャベツ剥ぐ胎内をきしませて  堀井 芙佐子
白菜は一枚一枚簡単に剥げる。どうぞ剥いで下さいと言わんばかりだ。ところがキャベツはいつも剥ぐときに違和感があった。剥ぎにくいのである。きれいに一枚剥ごうとすればするほど、ちぎれたりする。運良くスポッと剥げたら嬉しい。ロールキャベツを作るときいつもそうだった。その違和感は「胎内」の軋みだったのかと納得する。男性には分かりにくい句かも知れない。

  物忘れ重ねていたり寒牡丹    矢野  澄湖
吟行は寒牡丹も観賞。この寒いのに大輪の花を見事に咲かせていた。牡丹の花びらの重なりは素晴らしい。薔薇のジャムはあるのだから牡丹の花もジャムにならないだろうか?中国のお話で、牡丹を愛し育てていたおじいさんの庭を乱暴者がめちゃくちゃにする。悲しみのなかでおじいさんは牡丹の花びらを全部集めて埋めたところ、牡丹の花の精が出てきて・・・・とここまで覚えているのだが結末はどうだったんだろう。忘れてしまった。牡丹の沢山の花びらの重なりのように・・・澄湖さんお見事!

  できあいの思想を語る冬帽子   山下  整子
 「できあいの思想」が痛い。「日記広場たより」に見聞きしたことを書くのだが、話を聞いてはなるほどと感心し、それをもっと多くの人に伝えたいと書くのだが、共感したとはいえ自分の考えではないのだからいわば「できあいの思想」なのだと赤面する。あったかな冬帽子をかぶりぬくぬくと「できあいの思想」を語る人への風刺が鋭い。評論家批評家のたぐいがこうなると恐い。それを見抜く力を国民が失うと国は滅びる。「溺愛」とも重なって面白い。

  報恩講きのふの雨やきょうの晴  井上 ちかえ
 浄土真宗の東本願寺と西本願寺では報恩講の日が違うようだが、宗祖親鸞をまつる行事で一週間あるから雨だったり晴だったりするのは当たり前なのだが、声に出すととてもリズムが良い。ちかえさんの敬う心がリズムを作ったのだろう。ただ「きのふ」と書けば「けふ」としてほしい。

  雑念の行きつ戻りつ初暦     猪ノ立山 貞孝
 新年俳句大会で久しぶりにお会いしてこの十三年を思い出す。そしてこの句に貞孝さんは正直なお方だと今更だが、思いを深める。初暦だから「新たな気持ち」とか「抱負」とか「希望」がくっついてくるはずだ。でも、人間そんなにいつも前向きではない。あと何年に生きられるかしらとかマイナス思考も去来する。そういう雑念があることを素直に俳句にされている。正直すぎて句に面白みが欠けるかも知れないが、正直さが輝くときもある。貞孝さんが自分の気持ちに正直に書かれてきたことが、積み重なっているなあと感じる。
  冬木に芽獣の瞳と向い合う     宗  五朗
 寒牡丹を吟行で楽しんだが、植物園だから、次シーズンの準備も抜け目なく寒牡丹の傍らには紫陽花が植えてあった。寒牡丹の美しさもさることながら、その紫陽花の芽の強さは魅力的だった。いまここで「獣の瞳」と言われて納得する。木の冬芽はまるで動物みたいに見える。が、動物より「獣」が適切。ぞくぞくするように非常にたくましいのだ。

  秋韻へ翔つ折り鶴の骨透かし    瀧 春樹
 秋韻が辞書にない。広辞苑・大辞林・字源にない。秋陰なら「秋の曇り空」とある。しかしなんとなく「秋韻」は説得力がある。秋の空気が澄み切っている様子を感じる。だから折り鶴の骨も透けるのである。

  梟は聖夜にまたも目を瞑る     竹内  卓二
 梟は昼は目を瞑って、夜は目を開けていると思いこんでいるが、夜に決して目を瞑らないわけではない。聖夜に、これは俗世の騒々しい聖夜に、懲りない人間に愛想をつかして目を瞑るのである。
 
  豊前の沖に雨降る葱を引いている   沖  隆史  七四八の十九音であるが、悠揚迫らぬのんびりさがいい。定型に縛られない自由自在がいい。    

2006.3  「樹」167号掲載