作品展望158「樹」164号を読んで

   子守歌のように 悪のススメ        
 最近聞いた話だが、歌手で作家の湯川れい子さんが保育園での講演で「子守歌をお子さんに歌っている人は?」と400人の父母に尋ねたら、なんと一%つまり、四人もいなかったそうだ。これは福音館書店の創立に参画し社長、会長を経て現在相談役である松居直さんの講演会で聴いた。その直さんがある日二ヶ月の長男をむずからないようにと抱き上げたところ無意識に子守歌を歌っていたそうだ。自分でも驚いたのだそうだが、それは彼の母親が歌っていたものだった。何十年と自分では歌ったことがなくても、聴かされていたから口に出た。抱っこされてあるいは負んぶされて聴かされた歌には、母親の匂いと体温がある。子どもにとって何よりの安心である。ところが肉声の子守歌ではなく、CD、あるいはテレビ点けっぱなしとなると、危険である。長崎や佐世保の事件は、子どもの心に安心があったならば起こらなかったかもしれない。子守歌を聴いて寝ることは、親から愛されているというリズムを受け取ること。そうやって愛された子は、教えなくても他を愛する。教え子を刺した塾講師の大学生は、子守歌に包まれた経験があったのだろうか。
ルビ振って露の結び目見えますか   瀧  春樹
 春樹さんの自論はルビなし、前書き無し。俳句を独立の文学と考えられているからだ。それに書をなさるから漢字の深い意味を大事にする。だから、ルビをふるという行為は、奥にあるものまでも引っ張り出して浅薄に、いいかえれば通りいっぺんの一つの意味しかない、しかしはっきり見えるものにしてしまう行為である。「露の結び目」という、あえかな見えるか見えないものとの対比になったのだろうか。

  蛯色に芒光れば狭間も原       徳永 義子
 ルビがないので蛯が読めなかった。字源にも角川漢和中辞典の虫偏を探すがない。ところが電子辞書にはあった。今書いているのはパソコンの一太郎を使っているが、その文字パレットにもあった。しかし、読めなくていろいろ想像するのは楽しかった。芒が蛯色に光ると狭い場所も、まるで原っぱのように広がりを持つのならば、芒の花が咲いてしまう前の艶っぽい色なんだろうな。私たちはあまりにも知識を求めすぎ、正しく読めることを正義のように思ってきたが(学校教育の弊害かな?)読めなくても感じることを大事にしたい。義子さんの句が、春樹さんのいい例句になった。

  廃屋の錠はしっかり草もみじ      仲 三千子
 錠というと南京錠だろうか、これが鍵だと外からはかかっているかどうか判らない。しっかり錠がさされた廃屋には、これまたしっかり草もみじが取り巻いている。視点が錠から少し下の草もみじに移っているのが、すっと浮かんできてとても心地よい。三千子さんが実景に心を動かされて作った句だからだ。
点取り俳句とか月並俳句とかいわれ、一寸小金のある隠居さんの遊芸だったのを、明治初期正岡子規は「写生」をテーマに新生をはかった。それを受け継いだのが虚子。ただ写生だけでは力はない。報告になる。実景に深く心を寄せることで、ことばに力が生み出されるのだろう。心を添えてことばを差し出すと、こちらも心から受入れたくなる。

  色紐を絡ませ寒き心電図       林  照代
 杉田久女の 花衣ぬぐやまつはる紐いろいろ も色紐なのだが、照代さんの表現になるほどなるほど、初めて人間ドッグで検査したのでよくわかった。心電図を採るために身体に点けられたあの線は色紐なのだ。うまいなあ。

  一人居の友それぞれに天高し    原  サカエ
  一人居の友にそれぞれ天高し
「に」の位置が違うだけで、印象がかわる。「友に」とすると平面的だ。つまり散文になってしまう。意味は全く同じなのだが、声に出して読んで欲しい。格調高く「それぞれに」が響くはずである。これは切れの効用だ。「一人居の友」で軽く切れて「それぞれに天高し」と友の一人一人の上に広がる秋空を想っているサカエさんの、明るい気持ちが伝わってくる。

  なきがらの美しすぎる冬の蜂    古永 房代
 冬蜂の死にどころなく歩きけり 村上鬼城 この句を知って以来冬蜂の句を作りたかったが、できなかった。冬蜂を見る機会がなかったからだ。房代さんは冬蜂が死にどころを求めて歩いているときから見ていたのだろう。だからこそ「美しすぎる」の言葉しか使えなかった。写生の強みを感じる。羨ましいなあ。

  ちちははは似たものどうし草紅葉  増谷 信一
 恋人時代、相手が自分となにか動作でも同じ事をするととても嬉しかった。そういう積み重ねで結婚生活が続き似たもの同士になるのだろう。本人同士は「絶対似ていない、性格反対だから」と主張するに違いない。しかし子の立場からすると、不思議と似ているのだ。いや不思議ではない、何十年も一緒に暮らしていたら筆跡だって似てくる。はい、実話です。
  菊の香や庭いっぱいに日は暮るる   夢 山人
 秋になると菊花展が開かれる。一本からどうしてこんなに沢山の花が、とかこんなに大きくとか感嘆しきり。菊の香も気持ちが良い。で山人さんのお庭には沢山の菊が咲いているのだろう。「庭いっぱいに日」が暮れるという表現が面白かった。「や」で切っているから「庭いっぱい」なのは菊の香ではなく、名残の陽光なのだ。

  外に出て触れてみたし月夜かな    秋山 修恵 
外にも出よ触るるばかりに春の月 中村汀女 に似た気分なのだろう。月の光に触れたならば、思いかけない幸福が訪れるのかも知れない。そんな願望が感じらる。

  紅葉に染まりて明日は鳥になる    穴井 栄子
 北九州は紅葉がきれいではない。たくさんの工場のあった昔より空気はきれいになっているはずなのにと不思議だったが、車の排気ガスが元凶。紅葉でなく茶葉になっている。十五年くらい前、京都の紅葉を見、息を呑んだ。平安の時代からあれほど紅葉を読んだのは当然と、その見事さに納得した。紅葉の錦を前にしてただただ「きれいねぇ」
栄子さんは紅葉に染まって「明日は」鳥になると言う。紅葉に染まった「今」でないところに哀しさが見える。

  火薬庫の土手は二重に曼珠沙華    木村 賢慈
 火薬庫とそこに広がる曼珠沙華とは恐ろしい風景。実景の赤と想像の赤が重なる。これも実景なのだろうか。自衛隊の火薬庫?憲法九条を守ろう。

  草は実に年金暮らしに慣れている   佐藤  綾子
 我が家も年金生活半年目。なかなか慣れない。ただ野菜料理が増えて至極健康的である。

  僕の胸父がいっぱい勢揃い      佐藤  敏彦
 お父上のご冥福をお祈りします。敏彦さんの胸に、色んな時の色んなお父さんがいらっしゃるのはとても素晴らしいこと。それだけ人間味溢れるお父さんだったのだ。

  膝立てて携帯打つ女性冬の雨     澄 たから
韓流では、膝立は失礼な動作ではない。しかしたからさんは、悲しげである。日本ではお行儀悪い膝立て。 膝立ててメール打つなり冬の雨 と詠むと変わるだろうか。

    明月や心が和むふりをする    樋口 亮匡
 心が和むとは一体どういう感情なのだろう。抽象的だから判らないけれど癒しと一緒で「心が和みました、癒やされました」と言えば、なんだか判ったような気になっている。それを鋭く「ふりをする」とは痛快。自分の気持ちをしっかり描写してる。事実ではなく真実を書いている。 
2005.12  「樹」165号掲載