作品展望157「樹」163号を読んで

   声をだして 悪のススメ        
 水俣月の浦の「オレンジ館」に行く。宮澤賢治の、童話『なめとこ山の熊』と文語詩の薩摩琵琶弾き語りを聴くために。演奏者は林 洋子さん。三十五年ほど前、水俣窒素の東京本社前で巻紙に書かれた声明文を読んだ俳優座養成所第一期卒の方。それが縁で石牟礼道子さんの『苦界浄土』を全国で上演。最後に水俣で演じた時、俳優演じる患者が苦しみの「おめき」声をあげたら、家族から宝子と大切にされていた胎児性水俣病の智子ちゃんがゥオー、ゥオーとおめいた。その声が洋子さんの胸に突き刺さる。「あんたはなにもの?」演じる事に疑問を持ち八年間舞台に立てなかった。が、ある春の雨の日、バスから見かけた若い母親と幼い娘の姿に救われたのだそうだ。『なめとこ山の熊』の熊の親子の会話の場面に重なる。そこから宮沢賢治の童話の出前講演が始まり、「クラムボンの会」を主宰して今年で二十五年、千四百回以上の上演。第四回「イーハトーブ」賞を一九九四年受賞。花巻の方から直伝の小十郎や熊の花巻弁は、小柄な洋子さんが舞台で大きく見えたほど迫力があった。方言の力と心を思う。石牟礼道子さんもこのあとの対談で、方言が滅べば日本も滅ぶと仰る。
  車椅子押せばやはやは秋の蠅     禅  智子
 フィクションなら「秋の蝶」になるのだろうが、智子さんの押す車椅子には、蠅がとまった。その事実の重み、蠅は軽いのだけれど、きれい事ではない車椅子の重みを「やはやは」な蠅と表現することで転換させたのは、日々「いのち」に携わっているからなのだろう。心に響く句。

  鈴なりの風聴く山椒の実も俺も    瀧  春樹
 山椒の実は鈴なりである。俺にも煩悩というか雑事が鈴なりである。ああ、風が吹く。山椒の実にも俺にも風が吹く。鈴なりの山椒と俺に風が吹いて、その鈴なりの音が聞こえる不思議さよ。
 説明するとくどくなるが、虚実皮膜論法と言えるだろう。しかし、詩に理屈はいらないのだ。このまま朗唱して、詩の世界に酔えばいいのである。水俣の翌日は熊本市での「古今和歌集一一〇〇年熊本フォーラム」参加し、万葉仮名の面倒くさい表記から解き放たれた古今和歌集の素晴らしさを再認識した。平仮名で書かれることで、詠むことも読むことも限りなく自由さを得た。歌は歌なのである。俳句も連歌から発生したのだから、朗唱されることが前提なのだ。それなのに私たちは文字面を追う不自由さを自由だと思いこんでいたようだ。声に出して、何回も声に出して作品を読むこと、つまり歌うことが、俳句を生き生きさせるのだと、やっと気付く。

  外科医院一歩半歩の残暑かな    竹内 卓二
 この半歩の置き方が絶妙である。藤沢周平の世界を感じる。多くを言わずして、多くを語る。テレビの娯楽番組でのべつ幕なしに喋る人は、実は伝える何物も持ってはいない。何かを「伝える」ことは、実は言葉を相手に差し出すこと。それがしっかり判っている卓二さんだから「半歩」と言えたのだろう。

  電話取る片手で蟻をつぶしつつ   夏田  風子
 生活の一こまと言ってしまえばそれまでなのだが、きれい事だけが俳句ではない。きっと何かのセールス、葬祭場から互助会に入りませんかというような電話だったのかもしれない。なんだかどきっとする句。

  秋収め男に背中ありにけり    林  輝義
 秋収めとは、収穫後の祝の飲食を言う。過酷な農作業を淡々とこなした男の背中は強い。だから「ありにけり」と収められると、「ははーっ」と平伏してしまう。凄い。
  謹慎の少年が掃く秋の庭     姫野  恭子
この少年を抱きしめたくなる。散文ではないか、報告ではないかと突っ込まれそうだが、それを跳ね返す愛情がここにはある。だからいいのである。

  台風や二黒土星の母の尻     広重 静澄
 いやいやいや、何も言うことなし。母は強い。実は私も二黒土星ですの。

  川渡る秒針秋のゆるみもつ    堀井 芙佐子
 人が渡し船で川を渡っている時とも、風が川を吹き渡ってきている時とも、それは自由であるのだが、その時確かに秒針は「秋のゆるみ」を持ったと書ききった芙佐子さんは、俳句に独自の世界を構築したのだ。これは最近の白眉。こういうのに出会うと、俳句やってて良かったと思う。

  寄りかかる椅子は持たない十三夜  山下 整子
 十三夜のゆるやかな月は、椅子にあるいは柱に寄りかかって眺める図、例えば夢二の描く絵のようにもの憂げな美女では、もう手垢が付いてしまっている。「持たない」との断言は小気味よい。が、反面言い尽くすという弱点にもなる。全てを満足させる俳句は、全てを満足させない俳句でもある。これも真理なのだから、整子さんは我が道を真っ直ぐ行ってください。
  すんすんと物干す指に秋の風    依田 しず子
 素敵だ、「すんすん」なんていい響きの言葉だろう。「しんしん」では重たい。初秋の秋風の気配が指先に感じられたとき、しず子さんの口からこぼれた言葉。いいなあ。

  石蕗咲くや神の顔して落語聞く   穴井  栄子
 落語が好きな私であるが、とにかく笑って聞く。それは神の顔なのだろうか?落語を聴いているときの顔を自分では見たことがないので確かめようもない。そうも見えるのかなと面白かった。

  芒野の大きな揺れよ行く雲よ    阿部 禮子
 かなり大雑把なとらえ方ではあるが、景色が気持ちいい。禮子さんの気持ちよさが、文句なく伝わるからいいのだ。

  夏祭り終えばみんな一人住む    井上 佐知子
 夏祭りは楽しい。でも・・・・都会の孤独が待っている。
おもしろうてやがて悲しき鵜舟かな 芭蕉 と同じかな。

  一本の鶏頭殊に入日濃し      井上 ちかえ
 この光景を見たばかりである。美容院の横に一本の鶏頭がある。西日が葉を透き通らせ、たくましい鶏頭は輝いてあたりを睥睨していたのだ。実景を詠んだからいいのではなく、それを見るちかえさんの目の確かさがいいのだ。
  野仏の肩にふれゆく秋の蝶    魚返  サツ子
 これも一つの風景。秋の蝶のはかなげさが「ふれゆく」に見える。優しくて涙が滲んできそう。 

  金木犀香りが風でやってきた    魚返 美夏
 道を歩いていて金木犀の香りがすると、幸福になる。くんくんと匂いを嗅いで、どこにあるのか突き止めたくなる。
美夏さんもきっとそうなのだろう。そして金木犀の風と感じた。毎月の投句、偉いなあ。それでおすすめしたいのは作ったら音読してみてください。声に出して、歌うような気持ちで。すると「が」は強いから「は」にしようとか思うようになります。もっと素敵に俳句が生まれます。

  大法螺を吹いて野分けをやりすごす 小森 清次
 不安な野分を、法螺を吹いて追っ払うというのは名案。

  回転ドアに挟まれている秋いちまい 鮫島 康子
 回転ドアは欧米では百二十年の歴史があるそうだ。日本では六本木ヒルズの事故で取りざたされているが、空調の効率から言えば回転ドアは、一番省エネになるのだそうだ。回転ドアに入るのはなんだか勇気がいる。でも秋も挟まれているのだから、もっと自由に楽しもう、と康子さんのこの句に感じた。いつもながらの康子さんの柔軟さに、勇気をいただいた。
2005.11  「樹」164号掲載