作品展望156「樹」162号を読んで

   子守歌のように  悪のススメ        
 沖縄の子守歌「童神」を最近聞いた。四年前朝の連続テレビ小説「ちゅらさん」の挿入歌だそうだが、我が家にはテレビがないので、知らなかった。初孫のために民謡歌手の古謝美佐子(元ネーネーズ)さん作詞、ご主人の佐原一哉さん作曲。天の子守歌という副題が付いている。あるライブで聞いたのだが、それを歌ったのは広島でOTIS(オーティス)というメキシコ料理と自家製パイと世界の民族音楽のお店のオーナー佐伯さん。ウパシクマというバンドを持ってあらゆる楽器の演奏家でもある彼が、何も弾かず、ピアノの伴奏だけで歌った初めての曲が「童神」だった。いいなあ、これを歌いたいと思った。
 神戸震災を歌った「満月の夕べ」も二〇歳のお嬢さんの歌うのを聞いて「歌いたい」と思ったのだが、次の曲を探している私に「これを歌わせたい」と彼は思いながら歌ってくれたと聞いて、目に見えない心は伝わるのだと驚いてしまった。それに去年から身辺に赤ちゃんが次々誕生し、生まれたての命を抱っこさせて頂くことが多く、それで
この子守歌が心に響いたのかもしれない。十二月三日スミックスホールで歌うのでレッスンに励んでいる。
  秋茜我が血の薄き指の先      澄 たから
 赤とんぼを指さすわたしの指には、赤とんぼの赤さに較べてなんと薄い血しか通っていないのだろう。血という即物を出して、実はこの頃表面のみのとらわれて、じっと深いところまで見つめていなかった心を思い起こしているたからさんなのかもしれない。いやいや、そう思うことで熱い血が吹き出るだ。客観的な俳句のようでいて、深い想いが感じられた。

ジンジャーの初花に逢う敗戦忌   徳永 義子
 この句もそう。敗戦忌にジンジャーが咲いた。それだけの報告ではない。命の脆さと強さとが、この句に浮かび上がる。だから初花でなければならない。ジンジャーでなければならない。百日紅のようにずっと咲き続けるはなであってはいけない。人は愚かである。あれだけの犠牲を払いながらも、戦いのない世の中にはなっていない。ジンジャーの透き通った花びらは清潔で濃厚という矛盾した香りを持つ。賢くしかし愚かな人のように。それらを全て受入れて義子さんは生きてこられたのだなあと、感じ入る。
  する事のみつからなくてキャベツ切る  野田 直美
これも一見矛盾の句である。キャベツを切るという「する事」があるではないかと突っ込まれるだろう。しかしキャベツを切ることは「する事」ではないのだ。日常茶飯事に埋もれてしまう苛立ちがここにはある。俳句はいわばよく撮された写真だと思う。エプロン姿で直美さんがキャベツをリズム良く切っている。がそこに陰が漂っている。それを感じさせるよく撮された写真だ。

  医師会館法曹会館南京櫨青し     姫野 恭子  南京櫨はトウダイグサ科、中国原産の落葉樹。紅葉が美しいので公園や街路樹として多く植えられている、という説明はいらない。南京という言葉に多くのものが喚起される。恭子さんはそういう意識を持ちながらも、これを写生句として纏めようとした。「たまたま医師会館と法曹会館があったとよねー。なーんかおもしろかったんよ」かもしれない。そう、受け取る側は自由に感じ取っていいのだ。
が、やはり原爆忌や長崎忌と並べられている以上、日本人以外で被爆された方々、従軍慰安婦問題など否応でも思い出させる。

墓域明るし海を渡ってきて野分   堀井 芙佐子
 風は海から来るという断定に新しさを感じた。当たり前じゃないの、海から風が来るのは!なにかまととぶってるの?と叱られそうだが、ビル風という変な現象を経験する街住まいには、この断定は小気味よい。更に「墓域」である。墓地では湿っぽい。墓域という言葉の持つ広がりに、太古を感じる。この風は何億年も前の風かもしれない。

  海に落つ西日発条仕掛けなり   宮本 千賀子
 発条は「ぜんまい」メリヤスは莫大小と書く。これを俳句に使いたい時期があったので、千賀子さんもそうなのかなと共感を覚えたが、情景はアニメっぽいと難をつけよう。

手から手へ力満ち離るるいなごかな 秋山 修恵
いなごは手にしたことはないが、草原でバッタを捕まえた時、こういう感触だったことを思い出した。小さい昆虫の一瞬の力強さを詠むとこうなる。

秋風や声出ない日が人にある    足立 雅泉
挽歌は心を打つ。高村光太郎の「レモン哀歌」宮沢賢治の「永訣の朝」これ以上何も言えない。奥様のご冥福をお祈りする。

初嵐病衣こぞりてひるがえり    井上 ちかえ
見えた風景そのものなのだが、そういう風景を見たということが、この俳句を作るために既に用意されていたと言えないだろうか。この世に偶然はない。あるべくしてある。病衣がはたはたと翻る光景を見た時、病む人が元気になるようにと祈る心があったからこの句が生まれたのではないだろうか。

一滴の目薬秋をつなぎおり    太田 つる子
 目薬を差したから、秋がよく見えた?最近眼科を受診した。左目の視力が極端に悪く、コンタクト入れても眼鏡をかけても、〇,三以上にはならない。おまけに網膜剥離になる可能性もありますと脅される。ほんの僅かの率であっても可能性なのだからと高をくくっているが、貰った目薬を真面目に差しているわたしには、この句はとても面白かった。

  煩わしいものに旧仮名稲は穂に  沖  隆史
 旧仮名に憧れるのだが、正しく使えないから使わない。思うを思ふと書くと、なんだか情緒があるように感じる。懐古趣味かもしれないが、旧仮名は好きなのだ。当用漢字は味気ないからわたしは桜は櫻と書く。それは意地なのだろうか?煩わしいと隆史さんは言われる。が、一抹の愛着が「稲は穂に」の下五に含まれているような気がする。

日曜のふうせん唐綿投句締    神無 月代
 投句の締め切りだわと俳句を考えつつ、ぼんやりベランダを見ると(なにしろ百鉢以上も育てていると聞く)ふうせん唐綿が揺れている。風船葛もふわふわして感触がいいが、この風船唐綿も種がふわふわと綿毛をつけて飛んでいく様が綺麗なのだ。そうやって遊んでいるとこの句が出来た。投句と唐綿で決まったわね、月代さん。俳句で苦労してはいけません。遊ばなくては、ねっ。

  誤植のよう颱風一過の雲ひとひら  瀧  春樹
 毎月この『樹』を遅滞なく発行されていることの偉大さを、この句を見て胸を打たれた。凄いことだなあ。所属している同人誌『豈』には「誤植の花園」という欄がある。
『樹』には誤植が少ない。これは素晴らしいことである。だからこの句がきらりと光る。

草の花福耳を持つ孫を抱く     後藤 愛子
 沖縄では物心つくまでの幼児は、純白で何物にも汚されていない、神の魂に近い心を持つ、ということから「童神」と呼ばれるのだそうだ。そして福耳とは、素晴らしい。
どうぞ抱っこして沢山子守歌を歌ってあげてください。生の声の持つ温かさを幼子はその純白の心に吸い込んでいくでしょう。
 他に心惹かれた句
  秋風で草がドミノになっていく   魚返  美夏 
  絵本のように父母逝き給う敗戦日  鮫島  康子  われもこう風の指図にとまどいぬ  古永  房代

2005.10  「樹」163号掲載