作品展望154「樹」160号を読んで

  真振して   悪のススメ          

 わたしはひとりで映画「月桃の花」を見た。父上を沖縄戦でなくした友人は、母一人子一人。高齢の母上は現在入院中で、彼女の手でなくてはお食事されない。で、映画は夕食の時間帯に当たるので駄目だった。戦争を知らない世代が国民の半分もいる今、この映画はもっともっと沢山の人が見なければいけない。
 昭和二十年六月、日本国内で唯一の地上戦しかも最大の激戦が沖縄であったことをどれだけの人が知っているだろうか。敵は米軍だけではなかった。沖縄の言葉で喋るとスパイだと殺される。米軍の攻撃を避けて潜んでいたら軍が作戦基地にするといって、容赦なく追い出される。乏しい食糧は強奪される。最後は集団自決を迫り、そうやってなくなった沖縄の住民は10万人近い。沖縄出身の兵隊を併せると十二万人になる。これは同年三月の東京大空襲の死者十万人より多い。
 平成七年に沖縄戦終結の地摩文仁の丘に「平和の礎」が建設された。国籍敵味方の区別なく、沖縄戦没者一九九七四八名の名前が刻まれている。沖縄は古代から平和をいつも願っていたと、「月桃の花」音楽担当の海勢頭豊さんは著書「真振」で熱く語る。真振とは真の振るまい、つまり「魂」である。

  列島は細き島なり大旱       宗  五朗
 日本が島国であることを忘れている日本人。ひょっとしたら、日本人だと言うことも忘れているのではないだろうか。旱だ、洪水だと食糧の乏しかった時代には考えられないほどの飽食である。食べ物の廃棄率が九州が一番高いと報道されていたのが気に掛かる。細長い国だから方言も多様、食べ物も多様。ところが今は全国チェーン、二四時間営業のコンビニで味も全て統一規格では、郵政民営化だけでなく、日本の味までアメリカナイズされたらしい。食事がどれだけ心身の発達に重要かが認識され「食育」を報道する新聞も多くなった。古い話になるが味の素以来、鰹節と昆布で出汁をとる家庭が激減したのではないだろうか。二gの水に一〇aほどの昆布をつけ、沸騰直前で取り出し鰹節三〇cわっと入れ、三回ぐるっと回ったら火を止めて上澄みが一番だし。この美味なること如何。二番出汁をとったあとの昆布と鰹節は水煮して、醤油砂糖を適当に入れ炒りつければ、箸休めになる。この味を日本人が忘れて現代社会の様々な事件が生じたのではないかと感じる。素朴なそして最高の味を家庭に取り戻そう。

   幽霊に死に場所ありや阿蘇五岳     瀧 春樹
 芥川賞目指して小説書いている若い友人がいる。彼の短編に『幽霊』というのがあって、エレベーターに乗った幽霊が屋上から身を投げて自殺する話。それを思い出した。仮の肉体は死んでも魂が死ねなくて、さまよっている幽霊が沢山いる。昼間に幽かに見えるから幽霊で、夜しか現われないと言うのが定説だが、それは間違い。昼も夜も漂っている。生きているときに生きるという意識なく生きていたら、死んでも死んでいるという意識なく漂うのかもしれない。阿蘇五岳と幽霊は面白い。阿蘇五岳の雄大な眺めの中に、幽霊が真の死に場所を求めている気配を、春樹さんは感じたのかもしれない。

  夕明り白紫陽花へ三百歩      徳永 義子
 義子さんは夕闇に沈み込んでいく白紫陽花を眺めている。手を伸ばせば届く距離なのに、遙か彼方の世界のようだ。冥界?幽界?このまま踏み込んでいきたい誘惑に駆られのだが、何かが「まだ行っちゃ駄目」と踏みとどまらせる。その葛藤が三百歩に見える。

  植えし田の根付きはじめて静かなり  野田 直美 
 日本人でありながら稲のことをよく知らない。最近の小学校では五年生が
稲を植え、育てているらしい。で、ベランダに十gのバケツ田を作り、日記広場
のこどもたちと苗を植えた。いまそれが六十aほど伸びてさやさや揺れ「青田風」
と喜んでいる。青々した田圃の稲は、そうか根付き初めたら静かなのだ。しっかり
根を張って、力強く生きるときは静かなのだ。テレビの騒々しさが嫌で、壊れたの
を契機にテレビ無しの生活に満足しているが、街にはひっきりなしに音が溢れてい
る。稲のように静かに根付いた生活をしたいなあ。

  神々の昼寝の息だ青田波      広重 静澄
 日本の好きなところは一神教ではなく、八百万の神がいるところだ。だから、
神様の寝息が青田風を起こし、田圃が波打っているではないかという発想が
嬉しい。好評連載の〈さざ波の向こうから〉は神様の秋波かもしれない。

  海山ぎっしりかなしい夏だ     羽犬塚  結
 戦後六十年。原子爆弾という未曾有の恐怖を受けたにもかかわらず、
なにか小さくなっている日本政府。八月十五日だけ思い出す国民。
それらを死んだ人たちはみんなじっと見ている。浮かばれない霊が
しっかり海や山に鈴なりだ。見えなければ平和な風景。
 静澄さん、結さん、どちらも断定の「だ」を使っている。これを詠嘆の
「よ」にしてみよう。まるっきり感じが変わることに気づかれるだろう。
少し離れてみると「よ」当事者の主観が「だ」強く響く。

  万緑や力丸ダムの茶店閉ず    林  照代
高倉健さんの妹さんが力丸ダムで茶店十二支庵を開いていた。俳句も書もなさる美人。美禄句会もそこで開いた。残念だなあ。十二支庵が閉ざされても隣りにもう一つ茶店があったが、それも閉店したのだろうか。

  潮騒の若き足跡沖縄忌        伊藤   キクエ
  骨かなしむ沖縄戦よ摩文仁の丘   猪ノ立山 貞孝
 
 沖縄の住民四人に一人が犠牲となった沖縄戦は、六月二十三日沖縄守備隊総司令官の自決で終った。どんな思いで多くの人々は飛び込んだのかと、万座毛の美しい海に涙した。キクエさんの潮騒と足跡は、聴覚と聴覚の違いから幾らかの違和感があるが、言いたいことは伝わってくる。貞孝さんの「骨かなしむ」はこれ以上の言葉は見つからない。生者も死者も、あの戦争のむごさを骨にまで染み通らせている。正義の戦争なんてどこにもない。人が人を殺すことはしてはならない。

  五月雨や山やはらかく海に落つ  井上 佐知子
 水墨画を見るようだ。五月雨に包まれてぼうーと輪郭線も定まらない山の稜線は、まるで海に落ちていくようだと佐知子さんは感じた。素直な好句。ただ、声に出したとき「サミダレヤヤマヤワラカクウミニオツ」と戸惑いが生じる。「五月雨の」としてみるのも手かもしれない。

  抜けにくい棘抜く夏の雲育て   沖  隆史
 今はそう言うことはないが、昔手製の縁台など拭いていると、指にすいばりがささったものだ。大きいのは見てもすぐ判るから、指でも抜ける。やっかいなのは小さなの。毛抜きでも抜けない。針を焼いてそれで突いてやっと取れたりしていた。一人で悪戦苦闘している背後には、夏の雲がむくむくと湧いている光景。棘を抜く隆史さんと、それを眺める隆史さんの二人がここには居る。
  
  能書きを読み疲れたる蝸牛    堀井 芙佐子
 「能書きばかり並べて」とか「能書きはいいから本題を言いなさい」とか、あまりいい意味に使わないように記憶する。蝦蟇の油売りの口上も、あれは能書きだろう。しかし、蝸牛は真面目に一字一句逃さずじっくり読んでいる。「ふむふむ郵政民営化とは・・・」しかし、判らないのである。構想は素晴らしい、しかしそれが国営で何故出来ないのか、なぜ民営化するのか、ああ、草臥れたなあ。

  竜よりも龍の字がいい梅雨だから  中島 啓太
 いいねえ、この独断と偏見。梅雨だから字画が多い「龍」がいいという啓太くんの感覚は素敵だ。戸籍は「聡子」だが、略字のような人間になるなと高校時代恩師に言われて「聰子」を使っているわたしの動機より、よっぽど潔くてほれぼれする。若木集、毎号楽しみである。


                                                 2005・9  「樹」161号掲載