作品展望153「樹」159号を読んで

   月桃咲けば悪のススメ                 
  月桃という植物の名前に心惹かれたのは何時からだったか定かではないが、郊外の田舎家風の風雅なお店での忘年美禄句会で、飾られていた月桃の実を見て、その愛らしさに更に月桃の花を見たいと思った。そんな時通販生活で「月桃香うる」という蚊除け線香を見つけて、早速注文する。生姜科花茗荷属だから香りが良く、虫を殺すのではなく寄せ付けないのだ。普通の蚊取り線香の成分は ピレトリンやアレスリンで、それは殺虫剤だから、皮膚炎やアレルギーを起こしやすく、細胞に染色体異常を起こす作用もあるという。昔は除虫菊を使っていた。その成分がピレトリンでそれを科学的に作り出したのだ。昔、春樹さんから鈴虫を頂いて日記広場の子どもと育てていたのだが、三年目に全滅してしまった。卵が産まれた頃、急に暑くて蚊が出たので有名なK蚊取り線香を使ったのだが、それが鈴虫の籠の側だった。あくまでも推測でしかないが、蚊を殺す効果があれば、鈴虫でも人間にでも害があると感じた。
映画「GAMA 月桃の花」が北九州で7月23日に上映される。沖縄戦で父上を亡くされた友人を誘うかどうしようか迷っている。
  ダチュラ咲いて美しかった人間たち   鮫島 康子 俳句をすると否応でも草花の名に興味が湧く。ダチュラというおどろおどろしい響きの花を康子さんの俳句で知った。別名天使のトランペット。今は至る所で目にするようになった。ダチュラが珍しかったあの頃・・・・・

  不易なる粽の甘さ汨羅の情      竹内 卓二
 粽と汨羅とくればあの屈原と答えるのは中国史に詳しい方だろう。生涯一つの政治理想を抱き続け、まじり気のない生き方を貫いた憂国の詩人屈原は、紀元前二七九年、十五年にわたる放浪生活の末、洞庭湖に注ぐ汨羅江(べきらこう)に身を投げて、六十五才の生涯を閉じた。屈原の最期を聞いた近在の人々は、競って舟を漕ぎ出して舟べりをたたき、米を包んだ粽(ちまき)を江に投げ入れて魚をおびき寄せ、魚が遺体を傷つけないように防いだそうだ。五月五日端午の節句に、東南アジア各地で竜舟競争が行われ、粽を作るのは、この故事にならったものらしい。こうやって知らないことを知っていくのも俳句の楽しみ。今頃卓二さんは外つ国で、蒙古斑のお孫さんを抱っこしている筈。
  鉛筆の芯のすごさや芽木の中    竹原 とき江 芽木は芽吹いた木という意味。木の芽だったら、通草(あけび)の新芽。柚(ゆず)の葉をいう女房詞。茶をいう女房詞。山椒の新芽。と辞書にはあるが、芽木という項目は手持ちの「日本大歳時記(講談社)」にはない。しかしインターネットで検索すると、
わが胸に芽木赤らめり生きてあり 金子兜太 というのも見つかった。芽木と書いて「はぎ」あの秋の七草の萩と
万葉集では山上憶良さんは読んだ。とき江さんの句は、芽木の中に鉛筆の木があって、その芯から芽吹いている情景。だから凄い。

  近道をとれば迷ふて夕焼ける     仲 三千子  この気分いいなあ。わかるなあ。下五を例えば「茜雲」とか「いうように名詞にしたらもっといいかなあ。茜雲は
夏の季語ではないけれど季感があるからいいかなあ。

  蠢蠢と毛虫国道渡りおり       合原 正利
  道渡る黒い毛虫よどこへ行く     夏田 風子
 こういう光景を見たことがないのだが、その上を車が走っていくのだろうか。人は踏みつけるのだろうか?

  万緑の三十三畳鳥走る        羽犬塚 結
 六月のグランパ句会でこれを見て、皆一様に首をひねった。七・五畳は切腹の間と言われている。四・五畳で切腹し、側に三畳の検死の部屋がついているからだ。しかし三十三畳は?辞書にない。それで苦しいときのパソコン検索。あったあった。旅館案内で大広間三十三畳というのが、ずらずらっとある。エアコンも三十三畳用というのがあるから面白い。
広々とした畳敷きに寝ころんでいい気分の句。結さんはこの頃体調が悪く句会も欠席だから、ご快癒を祈る。
  
  ふらここのゆうらゆらゆら     林  輝義
 ふらここはブランコ。中国の宮廷行事から春の季語になったようだ。官女たちが、冬が終り開放感に溢れてブランコを漕ぐ。華やかな衣装が揺れて、美しかったことだろう。村田喜代子さんの新聞小説にも、朝鮮の女性たちが春のお祝いにブランコを勢いよく漕ぐシーンがあった。輝義さんの下五はブランコのずっと向こうに飛んで行ってしまったに違いない。下五に何をつけても説明になるから、思い切って飛ばしたのではないだろうか。その勇気に拍手。

  もの言えば崩る風情の花菖蒲  堀井 芙佐子
  掌を返せば崩れる百合の花   増谷  信一
 芙佐子さんの花菖蒲はまだ崩れてはいない。信一さんの百合の花は、掌を返したので崩れた。花が崩れる瞬間を目撃したことがない。花瓶に挿した花が、くたっとなるから崩れる前に摘んでしまうからだろうか。薔薇や牡丹や芍薬は水換えするとはらはらと崩れてしまうので、花びらをお皿に入れてしばらく楽しむ。いま気づいたのだが、お二人は花菖蒲や百合を女性の比喩で使われたのだろうか?
                            節間の闇を太らせ竹群るる   山下  整子    上五はどう読むのだろう。「ふしま」「ふしかん」「せつま」「せつかん」竹の映像はすぐ浮かぶのだが、読み方にまごまごしているうちに、この句の勢いが減少する。俳句は読み手に作者の意志を最小限で伝えなければならないから、難しいと言えば難しいが、それが伝わったときの喜びは大きい。作者と同じ読みが読み手も出来るようだと読み手は非常に気持ちがいい。だからいって、読み手にサービスする必要はないけれど。

  山茶花や告白のごと夜が明ける   秋山 敬
 告白のように夜が明けるとは一体どういう状態なのだろう。わたしはもともと低血圧で朝に弱いのだが、子どもがいる間は、課外だ朝練だそれ弁当と三十年間無理に朝起きしてきた。睡眠四時間もざらだった。連れ合いが退職した今、弁当作らなくていいし、無理に朝ご飯食べなくてもいいから、どこかへ行く日以外は朝起きしなくなったので、夜明けをこの半年体験しないから判らないのだろう。だから魅力的なのである。しかし山茶花は一日花だからにせよいささか強引な設定かなと思う。

  永代経夫に逢ふ日の夏帽子    伊藤 キクエ
 永代経は、故人の忌日や春秋の彼岸に寺で永久に行う 読経。お寺に眠るご主人に逢うために夏帽子をかぶったキクエさん。しみじみした句です。

  日曜をばっかばっかと南瓜咲く   太田 一明
 奥さんが土地を借り、耕してまず手始めにと、食べた南瓜の種を蒔くと、なんとまあ南瓜が見る見る育ったそうだ。我が家も台所のプランターにゴミからの南瓜が芽を出して、それこそ「ジャックと豆の木」の豆の木のようにぐんぐん伸びた。四階に蚊は来るが、南瓜を受粉させる虫が来ないのと、手入れも悪いので、実はならない。この句の手柄はなんといっても「ばっかばっか」という擬音。胡瓜の花は小さいが、南瓜の花は大きい。それも日曜日としたところに勤め人の一明さんの面目躍如である。

  身辺りに薬目薬はしり梅雨    小野 カズ 
身辺り「みほとり」という言葉がいい。和語の持つ柔らかさをもっと俳人は見直そう運動を始めたいと思うようになった。それに「り」が四回繰り返されたことで、薬という暗いイメージが、一転明るくなっているのも、思わぬ効果だろう。思わず口ずさみたくなる句。いいなあ。
2005.8  「樹」160号掲載