作品展望151「樹」157号を読んで

 コップンカーと悪のススメ               
 タイへ四泊五日の旅をして、八日に帰り着き、覚えた言葉がありがとうの「コップンカー」両手を胸に当てて軽く頭を下げながら微笑みながら・・・長男がタイのお嬢さんとの結婚式をバンコックでするので、家族親戚友人一同十四名でタイを訪問。タイでの結婚と言ってもお嫁さんはクリスチャンなのでカトリック教会での式。簡素で厳粛でいい結婚式だった。日本で披露宴にあたるのが昼と夜とあるのがタイ式なのだろうか。昼も夜も美味しい料理が出たのに、体重が増えていなかった。花嫁のお父さんが健康上の理由で禁酒禁煙中だからか、仏教国であるタイの社会慣習なのか、昼の部は全くのTeaParty。ウーロン茶を飲みながら中華料理のフルコースを食べるのだが、お腹に入っていくが不思議。夜は新郎新婦の挨拶の後シャンペンで「乾杯」あとはワインが少々。仏教国であり、酔っぱらいを嫌うお国柄はいいなあと感じる。もうひとつ感心したのが、一族の長である花嫁の祖母(七十四歳)をアマーと讃え、一族総勢二十九名が敬愛して接している言動である。見て、聴いてとても気持ちよかった。祖を尊ぶ風習は日本にもあったのにと自省の思いも湧いた。
  子離れを先に延ばして桜餅       澄 たから 子どもにとって親離れは意外と簡単である。進学などで家を出れば、それが親離れを意味する。親の子離れが難しいらしい。わたしは中学になったら大人料金なのだから、衣食住の面倒は成人まで見るけれど、決断は自分でしなさいと、良く言えば自立を促す、悪く言えば責任逃れの親だったので、子離れしていると思っていた。しかし、久しぶりに長男が家で過ごし帰るのを見送ったとき、涙がわき出る母親であった。嗚呼。だから、この句の「先に延ばして」と「桜餅」の間に詰まっている情感に深く共鳴した。散文で言えばこの二つの言葉の間には・・・・・・・・が長く入る。それくらいの万感の母親の思いである。

  木々芽吹くあいつもこいつも馬を射る 宗 五朗
 将を射んとせばまず馬を射よ、は有名な言葉である。杜甫の詩にある。弓を挽くには当に強きを挽くべし。(中略)人を射んとせば先ず馬を射よ。敵を虜にせんとせば先ず王を虜にせよ、と杜甫は「前出塞」で詠ったのだそうだ。
目的物を得るためには、その周囲にあるものから攻めてかかるのが早道であるという大意である。が、五朗さんはそれは合理的かもしれないが、なにか違うと物足りなさを感じている。破れると判っていてもどうして堂々と正面からぶつかっていかないのか、姑息な手段をとる奴らばかりだと憤慨しているのである。結果的には負けたとしても、ぶつかって得るものの大きさを、どいつもこいつも知らないのかと哀れんでいる。負け犬の遠吠えでは断じてない。

  山茱萸に引き寄せられて暮れ残る   野田 アサエ 山茱萸にわたしも引き寄せられた。稗つき節の「庭のさんしゅうのー木」は山椒ではなく山茱萸であると実物を見せられて瞬時に納得。民謡協会は知名度の高い山椒で統一しているが、馬を繋ぐのに低灌木で棘のある山椒は似合わないと強く思う。で、椎葉に山茱萸が自生していれば断言できるのだが、実地検証していないのでそこが弱点。しかし山茱萸の木を知っている人は絶対に山椒説を退ける。花は春を一番に知らせる可愛い黄色の花だし、秋には山珊瑚といわれるほど見事な赤い実を付けるからアサエさんのように引きつけられる。山茱萸を知らない人が勝手に山椒としたのではないかと邪推している。

  九条へ向き一斉に黄水仙       足立 雅泉
 九条を守る会が各地で作られている。わたしも戸畑地区の呼びかけ人の一人として発会式で挨拶をした。正義の戦争などあり得ない。戦争で失われるのは優しさである。戦争放棄を明文している憲法九条を、占領国の息がかかったものだから日本の憲法を作ろうというのは詭弁だし、自衛隊派遣を憲法違反にしないために変えるとしたら大きな間違いを日本国民は選択することになる。戦争を知らない世代が増えたから、詭弁や間違いが大手を振り始めた。戦争を知っている私たちは声をあげよう。黄水仙が自己主張するように意見を述べよう、平和を守るために。

  菜種梅雨痛み始まる胸の骨     穴井 栄子
 風邪のひどい咳で肋骨を疲労骨折させた四〇代女性がいる。バドミントンが好きで毎週二回練習している体格のいい人なのだが、息子が野菜を食べないらしく、無理に食べさせるのも何だからと言っていたので、野菜の摂取量が足りないだろうな大丈夫かなと危惧していた矢先である。農耕民族の日本人には、穀類とその時期の野菜、それも住んでいる土地産野菜を食することが健康の源と、昔から言われている。アメリカナイズされた食生活のひずみが、いろんな所で噴出しているので身土不二が見直されている。我が家も近くで摘む蓬の天麩羅がよく食卓に上る。栄子さんの胸の骨は、菜種梅雨のころ痛む。雨が降りそうだと膝に痛みで感じたことがあるので共感したが、そういう物理的な痛みだけではなく、昔々の切ない思いも含まれているようで、ロマンチックな気分になった。

  罪人のごと目をそらす春の月    井上 好子
 これは二句一章で、春のたっぷりと柔らかな月、あの「外にも出よ触るるばかりに春の月」と詠まれたような満月、が出ている。わたしは罪人のように目を逸らしている。と読むのが普通であろう。しかし、目をそらすのが春の月であり、それをしっかり見届けている好子さんの姿を感じる。その場合満月ではなく夕方西空に浮かぶ三日月や五日月である。夕空が夜空に替わる頃浮かぶ細い月は、罪人のようである。わたしの存在は罪だから早く消えてしまいますと切ながっているようだ。

  菜の花やゆっくり汽車が走りおり   尾上 美鈴
 菜の花に汽車はよく似合う。電車ではなく、汽車。流行のシルバーや真っ白やブルーや赤のではなく、黒い汽車である。富士に月見草が似合うと言ったのは太宰治だが、菜の花と汽車の取り合わせに心惹かれた美鈴さんは素敵だ。「ゆっくり」はこれまでにもよく目にするいわば使い古された言葉だが、ここでは場を得たようにしっくりと収まっている。菜の花の中をゆっくり汽車が走っている風景は誰もが目にした風景であり事新しくはないのだが、この句には迫ってくる力がある。欠かさず投句し、俳句作りを続けた美鈴さんへのご褒美のような句だなあと感じ入った。『九州俳句』一三八号で河野輝暉さんがある俳句大会の選者として上手な句は入選させなかったと書かれていた。上手な句というのは彼一流のアイロニーであって、全部同感したのだが特に七番目の「観念的で具象語に欠く」は強く頷く。美鈴さんの菜の花と汽車という具象語の強さは、いつも言う体験から生まれてきたと確信する。でっちあげではこのような強さは感じられない。

  大根煮て大根ほどの疲れかな    井上 佐知子
 これも具象語の強さである。が「大根ほどの疲れ」がくせ者。一体どんな疲れなのか、佐知子さんの疲れを数字に表せないのだが、なんとなくわかる。大根は素敵な素材である。あくがないかわりに料理人の思想をもろに表すから侮れない。美味しく煮上がればそれは素材の良さであり出汁の良さであると評されて、料理人の腕は評価されない。そう言う疲れなのである。しかし心地よいのである。

  修因あるとき手淫と聞こえ桜咲く   沖 隆史
修因感果(しゅいんかんか)収めた善悪の因に相応した果報を得ること。修因得果ともいう。仏教用語である。音が全く同じである「手淫」と聞こえた逡巡の情に桜は良く合う。「樹」に性的な俳句は春樹代表と隆史さん結さんくらいだ。枠や縛りを解き放して詠みませんか。
 他に
  目刺し焼く活断層に触れぬごと  宮本 千賀子
  淋しいと寒いは似ている春隣り  山下  整子
2005.6  「樹」158号掲載