作品展望150「樹」156号を読んで

 折り鶴折って悪のススメ               
 けんちゃんの折り鶴が私の所にも届いた。照代さんからである。内モンゴル留学生ジリムトさん主催の音楽会「草原の夢」会場受付の私に「日記広場の子どもたちに」とくださった。照代さんの従兄松本秀信氏作詞の「星の語り部」は一月号に書いたが、その長男がけんちゃん健治郎くんなのである。障害を持つ青年で、新潟の学園宿舎から職場へ通い、週末には父親の元へ帰るのを楽しみにしている。その彼が山古志村の被災者を励まそうと、一万羽の折り鶴を折ったそうだ。自慢じゃないが私は鶴を折れない。本を見れば折れるけれども、一枚の紙からさあ折りなさいと言われると途方に暮れる。だから、けんちゃんの沢山の、ひょっとしたら千羽あるかもしれない折り鶴には感動する。その三日後「32条を考える会」に参加。結さんの講演を聴く。「障害者自立支援法」と名前は立派だが、一人前と認めるから通院医療費を負担しなさいとの内容だから恐れ入る。銀行や大資本やイラク派兵には惜しげもなくお金を使い、民衆のためにはお金を使わない国家とは?一人一人がそれぞれに健気に生きるのではなく、みんなが楽しく生きる社会を作るのが国家の目的ではないのか?
  大霜の窓に災の字落書きす    木村 賢滋
 神戸大震災後も天災は続く。スマトラ沖地震、新潟地震、そして福岡西方地震。この日は朝八時からのラジオFMKITAQ生放送三十分強が済んでホッとして公園で春の気配を楽しんでいた時だった。地面が揺れたから地震とは思った。別府にいた長女から「お母さん大丈夫?」と携帯にかかっても「何が?」という呑気さだったが、自宅に帰ると沖縄、神戸、長野と安否を気遣う留守電が入っていて驚く。玄海島の被災情報に声もない。「草原の夢」会場にも「玄海島地震カンパ」の箱を用意する。日記広場も部屋に募金箱を何時も置いているので、それを募金する。もし自分が災害に遭っていたらどんななのだろう。被害に遭わなかった安堵と、被害に遭われた方への惻隠の情が「災」と落書きさせたのだろう。

  肺も腎も鮮魚のごとし海の死者   鮫島 康子  
 連れ合いが釣ってきた魚を捌く時、その内臓の美しさに「これは食べられないのかなあ」と思うことがある。康子さんの俳句はいつもどきっとする。死を何気なく書いているからだ。この句の横に 歳月あり海青くして人老いて
とある。海ゆかばのあの海である。戦後六十年経ったが、あの戦争でどれだけ多くの人が海でなくなったことか。しかし、彼らはまだ深海で生きている、鮮魚のように。そう思うことで慰めにはならないが、救いにはなる。

  寒桜今日は一駅遠くまで 重松 順弥
 寒桜は冬桜とも言う。最近かなり流行っている歌でもある。三月十日、長崎街道、唐津街道・中津街道などの起点である常盤橋の側に満開の桜を見た。啓翁桜という品種だ。寒い風の中、凛としかしはらりと花びらを散らせた。そういう桜を愛でるために一駅遠出をした順弥さんは風流人ですね。

  椿咲く落ちどこ少し右よりに    宗  五朗
 椿が、咲いていた位置より少し右に落ちた、ただそれだけの情景なのだが、なんだか寂しげな五朗さんの背中が見える。これを社会派俳句だ、右派だ左派だと言ってはいけない。あくまでも椿への愛情なのだ。上五が「藪椿」とかだったらすっきりするのにと思ったが、何回も読むと「椿咲く」と持ってきたのは、それを蕾から見守った五朗さんの愛ゆえだと判った。一日花の山茶花と違って、椿はかなり長く咲く。それがある日ぽとりと落ちる。椿との共有時間を感じさせる佳句。
  耕せばさらさらさらり土の春    林  輝義
 土の春がいい。農耕人しか言えない言葉だ。もう五年になるが、生ゴミを全部土に返すようにしている。鉄筋の四階住まいだからプランターにしか土はない。BM菌を入れ一ヶ月寝かせた生ゴミをプランターに移し、土をかぶせる。すると一ヶ月するとさらさらの土になる。ミミズも最近見つけ喜んでいる。本当は沢山のミミズに生ゴミを食べさせ土を出して貰うやり方に憧れているのだが・・・・

  真っ白に咲き白梅と言われけり  堀  晴美
 薔薇の木に薔薇の花咲くなんの不思議なかりけりの詩、北原白秋だったかを思い出した。今まで何の不思議もなくああ白梅が咲いたと思っていた晴美さんは、俳句を作り始めてから、目に映るものが新鮮に感じるようになったのではないだろうか。

せりなずなごぎょうはこべら射撃場 堀井 芙佐子
 うまい。春の七草だからはこべらの次は仏の座である。そこに射撃場と持ってきたのは天の啓示があったのだろうか、もうこれ以外の言葉は考えられない。四月号の特選句二重丸だ。余談だ仏の座のあの赤紫の小さい花は笛になる。そっと銜えて、はかない蜜を吸い、それからそっと吹く。ピーピーと可愛い音がする。からすのえんどうの豆笛も楽しいが、仏の座の花笛は可愛くて楽しい。
  伽羅というコーヒー屋あり雪の街  宮川 三保子
 戸畑にゆんたす珈琲という店がある。蝋梅の老木のあるいいたたずまいの店で何ヶ月かに一回プチコンサートコンサートを開く。時には演奏をバックに朗読や読み語りをさせてもらう。街に好きなコーヒー屋のあることは精神的に豊かなのである。きっと伽羅は三保子さんの行きつけのお店なのだろう。雪の街に伽羅は良く合う。

  春の海どこを切っても乾いている  宮本 千賀子
 凄い断定である。これはもう六回も続・わたしの「帰投」を書いている結果だろう。春樹さんの独断(誉めているのです)的な俳句をああかこうかと読み解く作業は、感覚のあいまいさを排除するのかもしれない。とここまで書いて気づいた。千賀子さんは春の海を切っているわけではないのだ。目の前の春の海、あるいは空想している春の海、蕪村が終日のたりのたりかなと詠んだゆったりとした春の海なのに、わたしの空虚感はどうだ。たったいま、わたしのどこを切ったとしても乾いているだろうなあ。

  如月の雪は降るべし人恋し     山下 整子
人恋しの下五には異論(弱いとか常套句だとか)があるかもしれないが、中七の断定は気持ちがよい。断定というより命令である。人恋しい弱い心を奮い立たせている。その対比がいい。べたついていない。これを如月の雪は降りけり としたらどうだろう。自分の気持ちに酔っているのねと即座に切り捨てられる。「べし」一語でこうも変わるのだから助動詞恐るべし。

  桜咲き花びらまい散る午後のこと   魚返 美夏
 午後のことという下五の体言止めがいい。樹集四月号は二七二句だが、体言止めは一〇六句。そのなかでもこの「午後のこと」は光っている。この頃俳句が作れないなあと感じたら、体言止めにしてみるといい。それと俳句はとても短い詩だから、動詞をできるだけひとつにするというのが基本。隣りの隆史さんの俳句を見ると、おりてくる・解く・割り損ず と見事に一句に動詞一語だ。桜咲き・花びらまい散ると重ねると惜しい。咲く桜か散る桜か、どちらかに絞ること。あれもこれも言いたい気持ちは判る。桜はとてもきれいだから。でも、これはまだ桜は咲いていない時期に作ったからこうなったのだろう。絵の基本はデッサン。俳句の基本もよく見ること。よく見て、一番感じたことだけに絞る。これを簡単には「省略」という。俳句は省略の文学と言うのは、どれだけ切り捨てるかではなく、何が一番言いたいかに絞っていくことを意味するだろう。

  弁当の箸割り損ず花の雲         隆史
 史さんの句は情景がすぐ浮かぶ、しかしそれだけではない何かがある。これが良い句の条件である。
2005.5  「樹」157号掲載