作品展148「樹」154号を読んで

 贈り物のように悪のススメ          
 一昨年より戸畑の牧山小学校の図書ボランティアをしている。今年度は図書活動の非常勤講師を拝命(学期ごとに辞令を頂くから楽しい)五年生二組の道徳の研究授業で『わすれられないおくりもの』(スーザン・バーレイ文・絵 小川仁央訳評論社版)を読んだことから、ウエル戸畑大ホールでの牧山小主催「いのちを考える集い」の第一部で、その本をもう一度読むという晴舞台を経験した。正面にはパソコン処理した絵本が大きく映し出されていて、わたしは舞台下手で椅子に座って絵本を読む。ライトが当たっているし、絵本に目を落としているから、客席は見えなくて、手も足も声も震えずに読めた。震えなかった理由はもう一つある。実は二日前に教え子の訃報を受けた。中学卒業以来会ってはいないのだが、彼が趣味で書いた小説を二編受け取っていた。彼を彷彿とさせる恋愛小説、二〇歳の誕生日に天使の羽の生えた女の子の話、彼は私たちに素晴らしいおくりものをしてくれていたのだと気づいた。その彼がきっと見守ってくれるから大丈夫、そう思ったから落ち着いて読めた。人が生きるのは、誰かに贈り物を残すためではないだろうか。形ではない大切な贈り物を。
  大根の胴真二つ売ってをり     木村 賢慈
 大根はどのように料理しても食あたりをしないから、当たらない役者を大根役者というと知って、かなり感心したことがある。無農薬有機栽培の大根を畑から抜いて囓った時の美味しさを知ると、なんと気高い野菜である事よと思うから、大根役者という蔑称が勿体ない。賢慈さんんも大根を尊ぶ気分があるようだ。あの大根が二つに切られて売られている、なんと無残な事よ。大根おろしから煮物、すき焼きに入れても美味しいし、鯛の鱗は大根のしっぽ部分を使うと取りやすい。葉っぱは油で炒めてもゆがいても滋味豊かだし、大根の皮は床漬けにいい。余すところなく使えるのに、二つに切って売られているのは、核家族で一本を使いこなせないからだろうか。あるいは野菜の高値で、半分に切って打っているのだろうか。いずれにしても現代社会の貧しさを憤慨しているようだ。
  平凡の凡がよいとて大根買ふ    仲 三千子
大根の輝いており過疎の村     太田 一明
 樹集・翌檜集と見たが、大根句はこの二句があり、どちらも大根を愛おしんでいる気配が伝わる。
霜育つ夜の花舗の花鋏       瀧  春樹
 霜がどうやってあのように形作られるかを夜中起きて観察した中学生か高校生がいて、その研究作文が国語の教科書にあったことを思い出した。凄いなあと感心し、とても私には出来ないと項垂れたことも思い出した。土を持ち上げるほどの力を持つ霜が育つ寒い夜である。しかし花屋にはまだ明りがついて、明日のための、結婚式か葬式か講演会か発表会か祝賀会かなにか大きな行事のための準備をしている。もちろん戸は閉められカーテンも降ろされひっそりして、中では花鋏が静かに使われているようだ。霜のいぶし銀の色合いとと花鋏のマッドな黒がよく似合う。ただ、花舗と花屋では雰囲気が違うのだろうか。酒舗という言葉がある。老舗とも使う。だから酒舗を「さかや」と読み花舗を「はなや」と読むのだろうか。
  
  西日濃し改名町の水の音     竹原 とき江
 愛知県の美浜町と南知多町が合併し新市名が南セントレア市。来年春に開港の中部国際空港の愛称が真ん中のセントラルにエアーをからめたセントレラだからという理由。南アルプスは定着しているが、この珍妙な南セントレア市という名称は取り下げられたそうだ。こんなに極端ではないにしても、合併だ区画整理だと、ある日町の名が変る。馴染み深い名前が平等という悪しき慣習によって、平べったい愛着も湧かない町の名に改められる。西日の当たり方と水の流れがとても上手く使われている。

  冬空が四方八方から落ちてくる   野田 直美
 カラッと晴れた冬空ではない。どんよりした寒そうな冬空だ。このところ天災人災、嫌なことばかり新聞に載る。政治も経済も人間性が感じられない部分で論じられているようだ。その閉塞感を破りたかったんだろうな直美さんは。がらがらっと四方八方から落ちてきたら、その向こうには青空が広がっているのではないかと、意識下に期待を持っているのだろう。

  モンゴルの風は七色セロリ噛む   林  照代
 三月三十一日ウエル戸畑中ホールでまた、モンゴルの歌や踊りや馬頭琴の演奏がある。是非聴きに来て、モンゴルの草原に吹く風が七色であることを実感して欲しい。日本人は農耕民族であると言われる。しかし蒙古斑を持つのは、大昔はモンゴル平野で馬に乗っていたことを証明するのではないかと勝手に思っている。セロリは冬。言わずとしれた洋野菜である。独特の匂いが好き、反対に嫌いと癖のある野菜。フランスで食されたのが始まりらしい。わたしは西蔵とセロリの句を作ったことがある。アジアの辺境(というのは偏見かもしれないが)に妙にセロリは似合うのだと、照代さんの句に我が意を得た気がする。疑う方は、どうぞ馬頭琴を聴きに来てください。
  骨かるく鳴る体操や寒の入り    松田 眞弓
 体操をしたら骨がこきこきと鳴った、丁度寒の入りだった。それだけのことなのだが何回も声に出して読んでいると「寒の入り」以外の言葉がくっつかない。「かるく」と「寒」の重なりが絶妙である。眞弓さんの体操はどんな体操だろうか。十一月号に自彊術をしていると書いたのだが、なんとか続いている。皆勤ではないが、続けた成果はあった。体重は変らないが、十五年前のベロアのパンツがはけたからびっくり。もっと真剣に続けたら新婚旅行に着たワンピースが着られるかもしれないなあ。

  甘すぎるカレーライスよ冬の晴  穴井 栄子
 カレーライスは辛いからカレーだと言ったら親父ギャグかな?印度タミル語の「kari(カリ)」が語源らしい。カリとは「汁・スープ」の意。唐辛子は十七世紀に中国から印度に運ばれたので、本来は辛いのではなかったようだ。
暑さ寒さが激しいところでは辛いのが好まれる。好みというより生きていく上での生活の知恵だ。調べによるとカレーを食べると血流が良くなるのだそうだ。カレー粉というのはなくて、黒白胡椒・クミン・ターメリック(これがカレー色)・シナモン・ナツメグなど三十種位の香辛料が混ざったのがカレーである。それにしても甘いカレーというのは気持ちが悪い。そんな味覚を幼児期に経験するのはある意味で不幸だろう。冬の晴の美しいこと。
  凍蝶の乳房まさぐる旋律かな     秋山  敬
 凍蝶は冬の蝶と同じ。実際は凍ってはいないのだが、とても寒いのでまるで凍っているかのように見えるから使われている。じっと静かなのだ。その凍蝶は乳房をまさぐる旋律を持っていると敬さんは発見した。なき母上への思慕の句だろうか。

  寒椿まなこ開いて死にゆくか    森 喜代美
 怖い句である。寒椿は寒さの中であれほどの美しさを咲かせるのだから、強い。それが雪の中で咲いていたら、ぞっとするほどの美である。寒椿の強いイメージに対抗している「死にゆくか」という下の句に戸惑う読者もいるだろう。作者が「眼を開いて死んでいこう」と決意しているのか、あるいはまなこを開いて死んでいったであろう、無念だったろう、と死にゆく人を思いやったのかどちらにも取れそうだからだ。また、椿の落ちざまから「寒椿はまるでまなこを開いて死んでいくみたいだ」とも読める。どれも間違いではない。
  
ネクタイと鏡の先は未来かな   禅  智子
きっと新成人のネクタイなのだろう。鏡の前でネクタイ結びに悪戦苦闘している姿を、楽しく見守る母だからこそ出来る句。俳句の垢に染まっていない新鮮さがいい。言葉が次第にこなれて来た時が楽しみな作家である。
2005.3  「樹」155号掲載