作品展147「樹」153号を読んで

  牛蒡のように悪のススメ         
 この頃よく牛蒡を買う。以前は金平牛蒡ばかりだったが、それよりもっと簡単な煮物をする。牛蒡の表皮にはなんとか言う(聞いたけど忘れた)有効な成分があるとテレビで言ってたよ、だから皮を刮がなくていいんですってと友人から教えられた。牛蒡にはセルロース、リグニンなどの食物繊維が豊富に含まれており、整腸作用を活発にして大腸ガンを予防したり、コレステロールを抑えて動脈硬化を防ぐとは割に知られている効能だが、それ以外にもあるとは素晴らしい。だから泥を落とすだけの洗いで充分。牛蒡は大体一束三百cで売られている。洗ってぶつぶつ十aくらいに切って平鍋に胡麻油を多めに熱くし、牛蒡を入れて鍋を揺すりながら油を牛蒡に絡ませる。甘い匂いに変わったら、水をひたひたにし、出し昆布を適当に切って入れ弱火にしてしばらく煮る。牛蒡が柔らかくなったら香り付けに醤油を少し入れ、最後は炒りつける。たったこれだけのことで美味しい牛蒡の煮物が出来る。昆布は大好きなので、牛蒡三百cに我が家は二十cくらいの昆布を入れるから、そのぶん水も多めにする。蛇足ながら「牛蒡掘る」は秋、「牛蒡蒔く」は春、「牛蒡の花」は夏の季語だそうだ。   ペン持てば芒野原のがらんどう    神無 月代
 作品展望に限らず、なにか書き出す時にふと感じる。手紙だったら用件があるからすぐに書き出せるが、それは個人宛だから、もし間違えても少しの恥で済む。しかし複数が読むかもしれないという文章を書く時、参考にとぱらぱらめくってみる他の人の文章の上手いことにかえって打ちのめされる。なんにもない♪なんにもない♪と「はじめ人間ギャートルズ」(かまやつひろし作)の歌詞ではないが、書くものがないと気づく時の索漠さが「がらんどう」なのである。薄とも芒とも書くが、薄は常用漢字で国字、草むらとか草木の群がり生えているところの意から「すすき」の意味ももつようになったのだろう。芒は穀物の先端の細い毛をのぎというが、その形状からできた象形文字。すすきの先端のぼわぼわした部分はのぎといってもいいだろう。すすきを芒と書いた方が、いかにもすすきらしい。

  ラーメンの湯気の手前が演歌かな   島  貞女
 よく解らないが、なんだか惹かれる。湯気の向こうではなく「手前」だからだろうか。手前はラーメンを食べる自分の側?それともラーメンを作る人の手前? 演歌の気分なのか、演歌が実際に聞こえるのかそこも不明であるのに、立ち止まってしまった。これが「手前の」とあれば情景が浮かぶ。ひとつ前の順弥さんの 冬の駅演歌の歌詞を思い出す と似た景色である。冬の駅ならぬラーメン屋で思い出す演歌は・・・・・しかし「手前が」なのだ。つまり上五中七=下五という形になる。不思議だなあ。

  冬渚かくも稚なき巻貝の殻      徳永 義子
 巻貝がとっても小さかった、ただそれだけなのに、宇宙の広さを感じてしまう。人間の文化はこのような小さな巻貝の営みから始まったのではないだろうか。稚拙なものから徐々に徐々に築き上げた挙句、絶滅危惧種は増え、人間が我が物顔にのさばっっている地球は病んでいる。十年前の阪神大震災、去年の新潟地震、そしてスマトラ沖地震と地球があえいでいるのではないだろうか。私たちは稚ない巻貝の謙虚さとひたむきさを思い出そう。

   雪の熾天使から青い弔電だぞ(ロルカへ)羽犬塚 結 フェデリコ・ガルシア・ロルカはスペインの詩人。一九三六年のスペイン内戦開始直後にファランヘ党員に銃殺される。タリバン政権崩壊後のアフガニスタンを描いた映画『午後の五時』はロルカの詩からとったタイトルだ。この映画は、女性の権利を抑圧してきたのはタリバンだけではなく、むしろ、アフガニスタンの風習・伝統として、男尊女卑的なものがあり、それがイスラムであると解釈されてしまっていることが大きい問題である。話が逸れてしまったが、熾天使とはひょっとしたら昨年七月に死去したマドリード・スペインの伝統的舞踏フラメンコを世界レベルの芸術表現として確立したスペイン出身の舞踏家・振付師 アントニオ・ガデスさんを指すのではないかと思う。一九八三年カウロス・サウラ監督「カルメン」の彼の踊りに日本ではフラメンコブームが起こったそうだ。
 中学時代から俳句を作っていた結さんの文学少年の面影がこの句に見える。一九八一年には美神館より詩集「弑逆のうた」を上梓。音読すると魂を感じる詩集である。

  ご自愛下さい堅香子の花見にゆきます 姫野 恭子
 堅香子は片栗のこと。万葉集に「もののふの八十をとめ等が汲みまがふ寺井の上の堅香子の花」と大伴家持が歌っている。早春に釣り鐘状の花が下向に咲いている写真はよく見かけるが、実物はまだ見たことがない。可憐だろうな。恭子さんもきっとそうだろう。ここにその花が咲くのですよと教えられきっと見にゆきますと約束したであろう情景が浮かぶ。それだけしか書かれていないのだが、声に出して読むと、懐かしさを感じる。この寒さの中で、堅香子は花を咲かせるための営みを土の中で一心にしているのだろうか。
てっぺんに鳥裸木の有頂天      古永 房代
 どこにも葉っぱのない木に鳥がとまってくれたから木はきっと嬉しがっていることだろうと房代さんは思った。いいなあ、こういうふうに思えるのは素直な心と柔軟な心と優しい心がないと出来ない。葉っぱのついていない冬の木は「枯木」と通常使われている。一例「♪百舌が枯木で鳴いている♪」枯葉は朽ちているから枯葉でいいにしても、葉を落としてしまった木を枯木と呼ぶのは不穏当だと常々感じているから、房代さんのように正しく「裸木」と使ってくださるのが嬉しい。俳句は五七五の一七音で、短いからこそ、言葉に細やかな神経を使うだけの価値ある詩形である。正しい言葉と言われて迷惑顔をするが、正しい使い方をすると喜ぶのが言葉なのである。なるべく言葉を喜ばせるように心がけよう。

  錠剤のぽぽぽぽぽぽと枯芙蓉     堀井 芙佐子
 枯芙蓉も枯紫陽花も枯菊も、枯れていても美しい。咲いている時も勿論美しいが、枯れても風情がある。ドライフラワーとは違う。発見されたミイラに「桜蘭の美女」という新聞の見出しが付けられたが、いくら保存が良くてもミイラであった。自然の植物の営みに侘び寂びを感じて愛でるのは日本だけだろうか。それにしても「ぽぽぽぽぽぽ」は勇気ある使い方だ。沢山呑まなければならぬお薬への挑戦のようだ。
子と歩く主婦に秋天かゝはらず   足立 雅泉
 椎名誠のエッセーに、モンゴルの地平線は素晴らしい、あんなのを見るモンゴル人の心は豊かだ。日本では地平線は見られないにしても、青空を見上げない日本人が増えている。ある日バス停で素敵な入道雲に見とれていたが、かたわらの主婦達はおしゃべりに興じて空をちらりとも見ない。連れている子どももそっくり同じだったと書いてあって、それ以来空を見上げるのがわたしの趣味のひとつになっている。  

 訪ねれば無住の庭の石蕗明り    阿部 禮子
 石蕗明りという言葉が素晴らしい。確かにあの黄色い花が固まって咲いていたら、明るい。それが誰も住んでいない家の庭にあるのだから、寂寥感がいっそう深まるという効果がある。山茶花も、椿も沢山咲くが、山茶花明り、椿明りとは聞かない。石蕗明りがいちばんぴったりくる。水仙明りは使えそうだ。

  ニッポンの軸足萎える十二月    増谷 信一
 米航空宇宙局の調べによるとスマトラ沖地震で北極の地軸が東に二.五aずれたそうだ。日本の軸足は、憲法九条違反の自衛隊海外派遣で萎えていくのではないか。物質の豊かさが心の豊かさと反比例しているからだろうか。家庭は簡素に社会は豊かに、と訴えよう。
2005.2  「樹」154号掲載