作品展145「樹」151号を読んで

  バタフライ効果で悪のススメ          
  バタフライ効果という言葉を知った。世界のどこかで蝶が羽ばたいたとする。その小さな風がずーっと広がっていって一週間後には颱風になるという現象である。どんな小さな力でも正しい時に正しい場所で正しい方法で発揮されたら、地球規模の変化を起こしうるのだ。これは「地球交響曲第五番」という映画のなかで、哲学者・未来学者のアーヴィン・ラズロー氏の言葉だった。天才的なピアニストだった彼は「人間は地球や自然の一部分である」と早くから感じ取っていて、それでダライラマ法王をはじめとする四十人の賢人達の「ブタベストクラブ」主宰し未来への提言を行っている。内なる自分に還れ、とも彼は言う。
 生と死がテーマのこの映画で印象的だったのは、自然分娩だった。一人の産婦人科医が帝王切開はおかしい。自然に生まれるように出来ているのだと分娩台なしの出産を援助する。映画には二人目の赤ちゃんを産むお母さんを上の男の子が暑いだろうと扇いでやったり「がんばって」と声援したり、ああ、こういう出産をしたかったなあと思った。赤ちゃんが生まれ臍の緒もまだついているのをお母さんが抱っこした時、彼は泣いた。それを見た私も泣いた。
  持て余す我が身の重さ烏瓜    江島 ひろみ
 俳句は当たり前のことを言ってもあまり面白くない。ひろみさんは烏瓜の軽さに較べての我が身の重さよと、その対比を意図したのだろう。しかし持て余すと書いたら、当然重いと感じるから、ここは逆を狙って軽くて持て余し、それが風にふらふら揺れる烏瓜に収斂されていく図にしたら面白いと天の邪鬼のわたしは思う。

  ハンガーに吊して鰯雲ならむ   魚返 サツ子
 ハンガーに鰯雲が掛かっている情景なら面白いのだが、ハンガーに吊して、とあるから何か他のを吊して、それが鰯雲みたいだったとも取れそうだ。「鰯雲ならむ」の「ならむ」がわかりにくいから迷う。動詞の「なる」+現在推量の「らむ」から転成した「ならむ」なのか、断定の助動詞「なり」の未然形「なら」に意志か推量の「む」がついたのか判断できない。つまり前者だったら「鰯雲になるのだろう」と訳し、後者だったら「鰯雲だったようだ」となる。ハンガーと鰯雲の意外な取り合わせは面白いので、意味がはっきりしたら、もっといいのにと思ってしまった。
  テロリスト通草に舌をさし入れぬ  沖 隆史
 樹に少ないのが隆史さんのような艶っぽい俳句。テロリストというといまや悪人の代表に祭り上げられ、小泉さんは「テロには屈しない」と決まり文句しか言えなくなっている。が文学の世界でのテロリストの音感は冷ややかだけではなく、いささかの悲哀感が漂っている。そういうテロリストが通草を食している。通草のあの優しげな甘さはテロリストに似合う。舌を差し入れて小さな黒い粒の回りの白っぽいゼラチン質を舐める時、テロリストは悲しげな微笑を浮かべているに違いない。

  居ねむりも愁思も同じようなもの  小森 清次
 新潟地震の報に、清次さんの無事を祈った。「こんちくしょう」と思うだけで済まれたのなら良かった。この句のようなおおらかさでどのような難儀も切り抜かれて行く人だと信じる。物思うのは秋とは限らない。何時だって人は思う。居眠りと較べあわせることで、その思いに押しつぶされる愚かさを示唆しているのだ。

  秋の海夕月の溶けてゆくような   佐々木 雲恵
西の海に夕月が落ちていく風景。海に没する三日月は見たことがないのでいいなあと羨ましい。沈む様子を溶けていくとしたのがこの句の眼目だろう。「の」の使い方は前号で鮫島康子さんも触れていたが、かなり難しいものがある。この句は「秋の海」「夕月の」と二回も重なっている
から気になる。「夕月溶けてゆくような」とするときっちり七五に収まるからではない。原句の中下句はとても素敵な響きがある。あえて八五にしたのだったら、そのリズム感を讃えよう。だから上五の「秋の海」とおいう大雑把ないい方が惜しまれる。

  白木槿空へ階段あるらしい    鮫島 康子
 雲の切れ間から陽光が差すのを「天使の階段」と言う。それを知っていると「あるらしい」がわざとらしく聞こえる。でも知らなかったら、へー、そうなのかと深さを感じる。わたしはむしろ知らなくて、そうなのか、空への階段って美しいなあ、しかし悲しげだなあと想像したかった。知識は多い方が良いかもしれないが、知らなくても良いことを知っていると、新たな感動が少なくなると思った。

  ?りかかる何者もなし曼珠沙華 澄 たから
曼珠沙華は本当にすっくと立っている。葉っぱさえも花が枯れたあとにしか出ないのだからもたれるものがなにもない。実景句だ。納得もし共感もするが、少し弱い。それは曼珠沙華という強さにたからさんが?りかかっているからだ。「何者もなし」が抽象的になるから、そこが弱くなる。具体を述べると、もっと共感できる力が句に湧いてくる。俳句で「何か」に逃げてはいけない。
  鳴りやまぬ電話鰯の骨を抜く    羽犬塚 結
 有吉佐和子の題名は忘れたが、今なお覚えている場面がある。非常に賢い母親なのだが、世間体を守る方向にその賢さが向かっている母親だった。彼女が夕餉の支度に鯵を捌き、小骨を抜こうとしていたら電話が鳴る。今進めている悪事?の電話だから長くなると判断した彼女は、その鯵を冷蔵庫に入れ、それから電話を取ったのだ。有吉佐和子は上手いなあと、この場面で強く思い注目していたら「複合汚染」を書いて一躍有名になった。
 
  啻ならぬものトルソーが泳ぎけり  竹内 卓二
 ただならぬと読む。下関の海響館で大きなマンボウを見た。ゆらーりと浮かんでいる様子はまるでトルソーだった。そこで「啻ならぬ」という文字が浮かぶ卓二さんこそ啻ならぬ人なのだ。

  コスモスを藉いた跡ある朝日かな  姫野 恭子
 藉くとは「しきものにする・借りる・貸す・乱れる・とりたてる」という意味がある。狼藉や慰藉料という熟語でお馴染みだろう。コスモスが風で吹き倒された情景だろうか。朝日に無残な姿をさらしているのだが、コスモスのなよなよしているが実は強靱な実体を知ると、ユーモラスさを感じる句である。「啻ならぬ」にしろ「藉く」にしろ読めないと素通りせず、辞書で調べてみよう。発見がある。
  夕立に会いてアスファルトおこりだし   呆夢
 激しい雨にアスファルトがしぶきを上げている様子を怒っているとした呆夢さんの表現が楽しい。えっ、夕立嬢に会ったアスファルト氏が、突然怒り出したのだって?

  泡ひとつ残し出て行く秋遍路   増谷 信一
 これも謎である。何の泡なのだろう。遍路は実は蟹だった?いや俳句はそこに書かれたようにそのまま解釈すればいいのだ。泡をひとつ残して出て行くお遍路さんがいたのだ。それを面白い、詩を感じるという読者もいれば、わからないと突き放す読者もいるだろう。要は読者におもねない作者の姿勢が一番大事。信一さんにエールを送ろう。

  折り紙の角が合わない萩揺れて   矢野 澄湖
よくわかる句なのだが、おおかたの読者は「萩が揺れるから折り紙の角が合わない」と解するのではないだろうか。
心理的な屈折があり折り紙の角がきちんと合わない、丁度萩が外では揺れていた情景。しかし不器用なわたしは何の心配もなくても角が合わないだ!

 今月も締め切りに少し遅れたが、書くことが出来た幸運を感謝している。勝手なことや失礼なことも沢山書いていると思うが、作品展望がバタフライ効果をすこしでも持つのではないかと脳天気なわたしは信じている。



2004.12 「樹」152号掲載