作品展望144「樹」150号を読んで

  身体を鍛えて悪のススメ          
 三月から自彊術を始めた。昔天籟通信の安田くにえさんのご自宅で週一回教えて頂いていた。ところが中国旅行から帰られたくにえさんが急逝されたのだ。それから十数年経ち、友人が「今自彊術申し込んできたのよ」と言ったので即私も申し込んで週一回の教室に通っている。正座はまだ出来ないので椅子に座ってだが、膝がいいみたいねと友人が言う。足を引きずることが全くなくなったのだ。週一回でも効果は現れていると喜んでいたのだが、誕生日過ぎて、つまり六十歳になってすぐの練習日の帰り、バスに乗ろうと走ったら、転んでしまった。バッグがクッションになってひどくは打たなかったが、転んだことがショックだった。それで翌日から家で自彊術をするようにした。教室では手揉み足揉みからはじめて一通りすると一時間かかる。ところが三十一動の自彊術だけだったら二十分以内で済むことにやっと気付いたからだ。二十回のところを十回で終らせれば十五分もかからない。それで今日現在続けている。人にも吹聴し、ここでも広言する次第。見栄っ張りの私だから怠け心を制御する働きが生まれることを計算に入れてのこと。体力もつき一石二鳥を狙っている。
 毬栗の青き落として風さりぬ      伊藤キクエ
颱風が今年は何度も九州に上陸した。柿も栗も青いまま落ちた。始めに声を出して読んだのだが、青き音してと捉えてしまった。いいなあと感じて目をしっかりあけて見ると「青き」と名詞なのだった。惜しい。青いままの毬栗を落として風が去るのは、いわば報告。ここに「青き音」をさせて風が去ると、詩的雰囲気が生まれる。惜しい。

  牛小屋の前をスーイと赤とんぼ   魚返 美夏
 赤とんぼは自由自在に飛ぶ。鶏小屋、馬小屋、納屋、畑、川、どこを飛んでも良いのだが、牛小屋の前の赤とんぼに美夏さんは注目した。ゆったりと牛は眠っているのだろうか、それとももぐもぐと反芻しているのだろうか、赤とんぼの小ささと牛の大きさが、ユーモラスに感じる。中学一年生の美夏さんのよく見る目、感じる心に期待する。

  割箸を割いて大いなる夏山     神無 月代
 これも割箸という小さなものと生命力豊かな緑の夏山が対比されている。月代さんの人生経験の豊かさが「大いなる」という言葉を選んだ。アイロニーをそこに感じる。ぱちんと割った箸の先に、たまたま山が見えただけの風景かもしれないが、それがこのような句になるのは日頃感性を磨いているからだろう。感性を磨くというと、そんなことはしていないわよと抗議されるかもしれないが、感性を磨くというのは好奇心があれば誰もがやっていることなのだ。あら面白いなあとか、なんでだろうとか思うことが、即感性を磨くことなのだ。大いに驚きましょうよ。
 

  雨音が人の声よりしゃわしいなえ 佐藤 敏彦
 「しゃわしいなえ」とは「せわしい」「騒がしい」の意であろうか。激しい雨音が、人の会話もかき消すようだったの意ととる。方言を俳句に取り入れる勇気が嬉しい。

  台風が近づく朝の梨の皮     島  貞女
ハリーポッターが一世を風靡して以来、図書室に魔法関係の本がずらっと並んでいる。そういうのを片っ端から読んでいるせいか、この句に何かを感じた。梨の皮になにか魔法的な力があり、台風となにか関係があるような予感!何がどうしてどうなったとの報告俳句ではない。これが  台風が近づく朝に梨を剥く ではちっとも面白くない。梨ではなく林檎でもいいことになる。梨の皮と体言で止めたから、その素っ気なさに気をそそられる。
  少女老ゆ永きいくさのながながし水尾 徳永 義子
 少女が老いれば老女となるのだろうが、「少女老ゆ」にもの哀しさと含羞を感じる。老女では事実そのままでふくらみがない。決まり切った言葉の決まり切った意味に屈せず、自分の心の言葉に従う柔らかなそして清らかな魂の人を詩人という。義子さんは詩人だなあと思う。

  生業を木っ端微塵に野分かな   林 輝義
 颱風も「野分」というと穏やかに感じる。しかし生業を木っ端微塵にするつまり失職という事態なのだろうか、会社でリストラされるのよりもっとひどい状態なのだろうか、強い風はただ者ではないはずだ。口調の小気味よさとは裏腹の気のもめる俳句である。今辞書を見ると「生業なりわいは農業に従事することまた農作物をさす」とある。するとこの颱風で被害を受けた農作物のことになる。そうすると「野分」がいかに詩的なことばであるか痛感する。

  颱風の夜を灯せるカメヤマローソク 姫野 恭子
 インターネットで掲示板を覗くと人名は仕方がないとして、商品名、会社名を頭文字だけとか伏字で表している、例えば○HKというように書いているのを見ると、嫌な感じだ。揶揄とも違う卑屈さを感じるからだろうか。あるいは私の我が儘なのだろうか。だから「カメヤマローソク」と堂々と書いているのが、気持ちが良い。恭子さん、おたふくわた、三ツ矢サイダー、などなど俳句にしようね。

  ?は飛ぶ百畳の海蒼くして 広重 静澄
 えーっ、?は飛ぶのぉ?なんて疑ってはいけない。海の男静澄さんは嘘は言わない。真面目な顔で冗談を言う優しい男である。わたしは近くの天籟寺川で、小魚がぴよんぴよん飛んでいるのを見た。飛魚の格好いい飛翔はわが美禄句会の三人娘はしかと見ている。海豚も飛ぶ。人間だって飛び跳ねる。それはどうでも良くて「百畳の海」という形容が楽しいではないか。大きな大きな?なのだ。
  己が身の何かはがれる鳳仙花    堀井 芙佐子
 鳳仙花はつまぐれ(爪紅)とも言っていた。赤い花を揉んで爪に乗せ、それを細長い葉っぱで括る。しばらくすると爪がほんのり紅に染まるという他愛ない遊び。白粉花も、完熟の黒い実を割ると、白い粉がありそれをおしろいと称して顔につけた、これも遊び。鳳仙花にしろ白粉花にしろ、どこにでもあっった花が見かけなくなり、ややこしい名前の洋花が幅を利かせている。話がずれてしまったが、この鳳仙花の実は触るとくるっとはじける。それが面白くて実がふくらむのを待って、次々に触っていた。そういう経験から「何かはじける」となるところをぐっと踏みとどまって「何かはがれる」としたと推理する。種ではなく、染めた爪の紅が剥がれるのかもしれない。欲を言えば「何」という漠然としたものではなく、具体を示して欲しい。「何」で逃げてはっきりさせないのも手法の一つではあるにしても。

  野分後の木箱は錆を急ぐ釘  沖 隆史
 木箱を棺桶と読むのは深読みである。木箱と書かれているからひょっとしたら棺かもしれないが、とにかく木箱なのである。雨風にさらされる木箱なら、釘が錆びるのは自然の理である。それを「錆を急ぐ釘」と擬人化したのは、心に鬱屈したものがあったからだろうか。何も説明していないから、尚更謎めいて魅力を増す。

  かくれんぼ秋の近くに子どもおり  尾上 美鈴 
子どもの近くに秋があるのではなく、秋の近くに子どもがいるというとらえ方がいい。同じではない。かくれんぼしている子どもの側に萩が揺れているのかもしれない。茂った葛に良い匂いの花が咲いているのかもしれない。柿が色づいているのかもしれない。そういうのをひっくるめて「秋の近くに」子どもがいる風景は心楽しい。いつもは具体を読みましょうというわたしだが、こういうまとめ方も面白いと思う。ただ表記として「子ども」と書なおしているのには理由がある。以前にも書いたことがあるが、おとなのお供としてではなく「子ども」も人格あるものとして捉えたいので「子ども」と表記するこだわりを理解していただきたい。


2004.11 「樹」151号掲載