作品展望143「樹」149号を読んで

  立ち止まって悪のススメ          
 今年の仲秋の名月は九月二八日。この日は孔子の誕生日である。台湾では教育の日として休日になっている。長崎でもお祭りをするところもあるそうだ。太陽暦を使うようになって、そして農業人口が少なくなるにつれて、日本人は月を見なくなった。月どころか空も仰がなくなった。天気予報はアメダスで詳しくしてくれるから、自分で空を見て判断することがなくなった。それが私たちの生きていく力を奪っているような気がする。そして携帯と二四時間コンビニが、それに拍車をかける。立ち止まって考えなくても済むからだ。『戦争のつくりかた』(りぼん・ぷろじぇくとマガジンハウス刊六〇〇円)という本を読むと、考えない日本人の末路が示唆されて怖くなる。戦争放棄の日本なのに、人道支援の名目にせよ自衛隊を派遣していることは、緩やかな戦争への道に繋がらないのだろうか?なしくずしに日常化され、声高に言う人が少ないのが怖い。だから八月号で依田さんの「埴輪の口」の、ああそうかもしれないと膝をたたいた読み方、九月号で依田さんと竹原さん、瀧代表が「みなづきの光」について書かれていて、ここに考える人がいると嬉しかった。
  
   田水張るさかさに歩く人がいる     阿部 禮子
  三毛門に住む友人が、田植え後のまだあまり苗が伸びていない時の田圃にうつる星を見てご覧なさい、そりゃあ綺麗なものよ、と教えてくれた。昼間田圃を通り過ぎることがあって、空や雲や樹木が田圃にさかさに映るのを見た。素敵だった。これが星だったらどんなだろうな、きっと感激するだろうなと、それを見るのが来年のわたしの夢。

  ひまわりの空を押し上げ正午なり   井上 佐知子
 ひまわりが空を押し上げているように咲いている、その生命力に感動の正午だったと、饒舌でなく、説明でなくよく纏まっている。そこで一言「の」について。「の」は@私の本ー連体修飾語A私の書いた本ー主格Bそれは私のよー名詞の代わり と非常に便利な助詞である。それだけにいろんな取り方をされるから注意して使いたい。こういう場合「ひまわりは」としたら詩的雰囲気は崩れるのだろうか。「話」を名詞の場合と「話し」と動詞の場合の表記について等、みなさんの句会でも話されませんか?決まりに従うのではなく、気持ちの良い使い方をするためにも。
  
  長崎の八月の石浮いている    猪ノ立山 貞孝
 浮く石なら軽石なのねと簡単に言ってはならない。本来沈む石が、八月の長崎では浮くのである。広島に続いて、原爆投下という理不尽なことが起こった長崎ではそういう想像は決して変ではない。あれだけの犠牲を払ったのだ。
  
   牛乳を噛んで飲む日よ敗戦忌        貞孝
 風化させてはいけない。戦争を起こしてはいけない。そういう思いを言葉にし、知らない人たちに伝えなければならない。知った者の義務である。

  青い空金魚すくいの子供達     尾上 美鈴
 夜店ではなく昼店?平和な光景。過日NGO沖縄アジアチャイルドサポート代表波間哲郎氏の「閉ざされた世界の中で懸命に生きる子どもたち」を映像を見ながら聞く。世界で年に千五百万人が飢えで死んでいるという事実は大変衝撃だった。米国の豊かさに日本は肩を並べているが、わずか七%(日米で四億人)が世界の食糧とエネルギーの半分近くを消費しているのだ。しかも三割近くは残飯として捨てられている。フイリッピンのスモーキーマウンテンで僅か四歳の子も一日十時間働く。でも満足に食べられない。ダイオキシンやメタンガスが発生する劣悪な環境では生きること自体が難しいのだ。ある少女は「夢はおとなまで生きること」と笑顔で答えたという。モンゴルのマンホールチルドレンはもっと悲惨だった。社会主義の崩壊で混乱し、親に捨てられた子ども達はマイナス三十℃の地上では暮らせないから、温水の通るマンホールで暮らすのだ。当然汚水につきものの鼠・ゴキブリもいる。柔らかな唇や耳は真っ暗な中で寝ていると囓られて痛々しい。ここの子どももおとなになるまで生きることは難しい。ある少年は「早く人間を終わりたい」という。ラマ教は輪廻転生を信じるからだ。生まれ変わったら犬になりたいと願う少年は、犬は人間より幸せだと思っているに違いない。ベトナム、カンボジア、タイ、ミャンマーなど十五年間、アジアの子どもを見てきた波間氏は、アジアの子どもは可哀相だから助けてあげようと言うのではない。むしろアジアの懸命に生きる子どもに比べて、日本の子どもは生きる力が少なくて不幸ではないかと訴える。その責任はおとなにあるとも断言する。だから最後に「理解する」「少しだけ分ける」「自分が一生懸命生きる」ことをしてくださいと、聞いていた中学生に伝える言葉は真実の力があった。この講述録を全国の中学生に送ろうという方がいて早速申し込む。ご希望の方は私までご連絡を。一冊二五〇円。わたしたちの「少しやさしい心」で、いかに多くの命が救われるかを実感した池間氏の講述録を是非お読み下さい。

  読みかけの新書団扇を挟みおき   合原 正利
 なかなか味のある風景。こういうのは報告俳句とは言わない。背後に生活感がある。本好きには好評の句。

  瓦礫の上の月です優しい匂いがする  鮫島 康子 
 酒井俊さん歌う「満月のゆうべ」をご存じだろうか。この夏カラオケに入っていたからずいぶんポピュラーになったようだ。沖縄の反戦歌であると勝手に思っているが、そういう思いを込めてあるところで歌ったら、好評だった。月は変わらず全てを照らす。人間がいかに愚かな生き物かを写真集『百年の愚行』(紀伊国屋書店刊)は明らかにする。原爆、アウシュビッツのガス室は言うに及ばず、産業廃棄物、酸性雨、狂牛病などなど、人間はどうしようもない愚行を、それも繰り返している。しかし月は優しいのだ。人間を優しい匂いで包んでくれる。月に匂いなどないと言わないで欲しい。非力を知った人間が、うちひしがれながらも愛を信じ、諦めずに祈る時、月は匂うのである。
  
  二の腕に来てやわらかき月光や    澄 たから
 颱風騒ぎで、今年の名月もちょっと心配だが、こういう情景を心静かに楽しみたいものだ。六〇歳の誕生日が運良く仲秋の名月と重なる。月の光に包まれて迎えるのは良い気持ちだろうなと今からわくわくしている。

  母一人胡瓜ゴロゴロ太りけり   野田 直美
 ひとり・きゅうり・ふとり・けりと「り」が重なって軽快なリズムを生んでいる。なんだかたくましいお母さんを想像した。
よれよれの風受け流し小豆蒔く   古永 房代
 前回も房代さんのを取り上げたので止めようかと思ったが「よれよれの風」がどうにも素通りできない。この夏は暑かった。クーラー嫌いの私でもクーラーなしでは生きられなかった。だから「よれよれの風」が、さもありなんと心に響く。房代さんが毅然として小豆を蒔いているようで感動する。

  太陽をはじきて皿にもも二つ    森 喜代美
 梅や桃は産毛がある。だから水につけると、どういう現象か説明できないが、新しいのは透き通る。初めてそれを見た時、しばらく言葉もなく見入っていた。その美しいこと、宝石の輝きに匹敵する。いや何億円というの宝石は見たことがないから断言できないが、桃の美しさに宝石は及ばないような気がする。それが「太陽をはじきて」なのだ。
 
   ワシワシワシの怒り百姓死にゆけり  姫野 恭子
 百姓はもともとひゃくせいと読んで、一般人民を指す言葉だった。農業国日本だったのだ。それが今・・日本は滅ぶのではないか。せめて怒ろう。

  狛犬の口乾きたる夏日照り      山下 整子
石製の狛犬だから口が渇いているのは当たり前、ではない。犬の口の渇きに気付く感覚、いわば詩心を見て欲しい。

2004.10 「樹」150号掲載