作品展望141「樹」147号を読んで

  自己責任で悪のススメ          

 入道雲を七月三日に見た。日記広場でホットケーキをみんなで焼いている最中、三歳の明日香ちゃんが「雲が動いてる!」と指さした先には久しぶりの入道雲があった。もくもくと湧いていた。入道雲を見ないなあとずっと思っていた。一説には田圃が少なくなったこと、道路が舗装されて土がないこと、それで充分な水蒸気が空へ上がっていかないから、入道雲が少ないとのこと。その翌日の夕方には今度は本当の虹を見た。虹の根元がはっきり見えた。何`か先に歩けば虹に柱の中に入れるのではと夢のようなことも思った。
 彩雲の時にも書いたが、空を見ることをしない人が増えているようだ。それで日本は寂しい国になっている。イラクの人質事件での家族への匿名非難の記事に愕然とした。
もし自分の家族が人質になっていたら、とちょっとでも想像したら、非難の前に、その気持ち判る、という共感ができるはずだ。個性尊重の教育の歪みが、他を思いやる気持ちを削いだような気がする。しかし俳句人口の多さに、幾らか慰められてはいる。想像力と他を思う気持ちを育ててくれるのが俳句なのだから。と断言したい。
新しき水靴履くや青嵐       夢  山人
 水靴がなんとも魅力的。田下駄は別名水下駄と言うらしいが、水靴は辞書にはないから山人さんの造語だろうか。それともいつも使われている言葉なのだろうか。登山の時に履くから登山靴というのだから、水にはいる時に使う靴と言えば長靴に違いないから、この句を長靴にしたら、どうなるだろう。気分としては変わらないが、語感が違う。ナガグツよりミズグツが新鮮。ただ聞き慣れないからではないかとつっこみが来そうだが、だからいいのだと胸を張って言おう。

足もとの記憶が揺れる夏の海    井上 佐知子
 静澄さんの出版記念句会の一句。春樹代表の特選。優しい佐知子さんは、子どもの頃の思い出が、だんだん遠のいてきている事への郷愁で作られただろうが、社会性俳句の性格も持つ。日本人が他を思いやる気持ちを充分持っていた良き時代は遠のいている。憲法には戦争放棄を明言しているのに、人道支援の名の下の自衛隊派遣。これが人質問題の発端なのに、それには口をつぐみ、個人の責任だけを追及する風潮は、「記憶が揺れ」ている危うい状態だ。
 
梅雨空を持ち上げ今日も出勤す   神無  月代
六月の空は不機嫌出勤す      野田  直美
 この二つの句は全く同じ空模様の下での出勤風景。ぐずついた六月の梅雨空は、人間様がよいしょと心を持ち上げ元気を出さないと、いつまでも不機嫌模様である。「空を持ち上げ」と「空は不機嫌」が生きている。

  水無月や消えざるものに子の忌日  井上  好子
 戦争末期生まれの私は、ひょっとしたら死んでいたかもしれない命を、祖母と身代わりのような形で希有に生き延びた。もし死んでいたら、私の母はこのように毎年呟くことだろう。切なくて、美しい。

左手に海を右手に夏大根      太田  一明
 これも出版記念句会の高点句。上手い。左側という意味の左手と、本当に右手に夏大根を握っている姿が、俳句は俳諧、諧謔の味そのもの。ひょうひょうとした好々爺(まだ若いけど)の一明さん。

長椅子の埃払わず夏薊       佐々木 雲恵
 夏薊のしゃきっとした自己主張と、長椅子の埃さえも払わない怠惰さの取り合わせが楽しい。しかし、なぜ埃を払わないのかという疑問が残る。これは長椅子であろうがベッドであろうが、どちらでも構わないと初めは思ったが、何回も読んでいると、長椅子でなければならなくなった。主人がいなくなって、客の訪れが絶えた部屋の長椅子なのだろうか、子どもが幼い時、賑やかな団欒の何時も中心にあった長椅子なのだろうか、今は大人になったこどもたちは、この長椅子に座ることは久しくない。そういう物語がこの句に感じられる。

母流れるときどき青い紐になり   鮫島  康子
 母というものは損なものだと時に思う。優しく愛情深くなければならぬと自己規制をしてしまい、がんじがらめに母性に縛られる。あきらめとかいう観念を持つ前に、いろんなことを犠牲にしてきた、いや犠牲などと言うたいそうな言葉を使ってはいけないのだが、そういう自分も真実であり、それにまた満足している自分もいる。そういう時、青い紐になって流れる母の姿は、羨ましいくらい美しい。そう、流れればいいのだ。道徳や社会通念や他からの評価や教養や知識や、そういう二義的なものに縛られる必要がどこにあるのだろう。

土器を掘る弥生の空にひばりあげ  野田 アサエ
 弥生時代の土器を弥生三月の麗らかな空の下で掘っていると錯覚しそうな気持ちよい句。ひばりは勝手に空に上がって鳴いているのだが土を掘っていれば、ひばりが当然高く上がることになり、発掘現場の位置が目に見えるようだ。
そこまで深読みしなくても、そこらへんを人間がうろちょろなにか掘っていれば、雲雀も落ち着かなく飛び回っているに違いない。

逢いたい人いてライラックほろほろ  林  照代
 擬音語は効果的に使われると、とても強い。この場合の「ほろほろ」はライラックの花をはっきり見たことのない私だけれども、そうなんだなと迫ってくる。ほろほろ咲いているのか、ほろほろ散っているのかは謎だけれど。

銃身のごとくに日傘持ち歩く    堀井 芙佐子
 イラク派遣の自衛隊員の母の姿を思った。銃後の母という言葉は死語だろうか。だれがこの死を願う親がいるだろうか。といっても昨今の我が子虐待のニュースには胸が痛いのだが、かれらは母性父性の不足ではないかと私見を挟んでおこう、で、前屈みになって日傘を真っ直ぐ脇に挟んで歩いている、少しせっかちな足取りの小柄な母親の姿がこの句から浮かび上がる。
  
  キャベツ噛めば噛むほど海は穏やか 宮本 千賀子
 これも出版記念句会に出された句。海の男の静澄さんにちなんで兼題は「海」。キャベツと海の取り合わせが、なんとも新鮮だ。それで晴海さんは特選。わたしもいただいた。生活感ではなく、孤独をこの句に感じたからだ。すると「とっても辛いことがあったあとこの句ができたんです」と千賀子さん。言葉は心だと日頃言っているのだが、こんなに歴然と現れるとは驚いてしまった。言葉の一つ一つを大事にする千賀子さんだから、言葉に心が包まれ、俳句になった時、それが現れる。ではどこに?と思う人もいるかもしれないので要らぬ説明をする。それは「噛めば噛むほど」に現れている。キャベツを「噛む」と表現したことで、なにか心に鬱屈するものがあると感じられる。噛んでいるキャベツの味は索漠たるもの。それに反して、つまり私の苦しいやりきれない心に反して、海はあんなに穏やかだ。説明は一切省いて、このように現象だけを述べる手法は時とすると、深い想いが伝わらないことがある。読者は現象だけにめくらまされる。この作品展望を一四〇回書いたことの成果がこの句の鑑賞に繋がったとしたら、わたしはこれを書くことで大きな勉強をさせて貰っていると気付いた。作品展望がなかなか書けずに嫌になることもある。現に、これを書き出す前は、もう辞めたい、他の人に代わって貰おうと真剣に思った。それほど毎回辛い。しかしこうやってこれを書いた今は、別の意味で辞めたほうがいいのではないかと考えている。このような貴重な勉強が出来る機会を独り占めしているのは、独禁法に引っかかるのではないかと・・・・・・
季語ではないけれど

あけぼのやありとあらゆる樽の中   

 枕草子の冒頭部分「春はあけぼの」が刷り
込まれていて、曙は春だとばかり思っていた。
この句を作った時も春だった。
 作り上げて歳時記を見たが、記載無し。わ
ずかに曙躑躅が春であった。
 曙は夜明け方で、夜がほのぼのと明けよう
とする時刻。暁は夜明け前、だから薄暗い。
 あかつき、あけぼの、あしたと明けてゆく。
ついでに言えば、ゆふべ、よひ、よなかと暮
れてゆくそうだ。 
 明け方のほんのり明るくなったあたりに樽
が無数に置いてある。それに朝の光が少しず
つ差し込んでいる状態を想像してくだされば
それでいい。ちょうどお相撲さんに「曙」さ
んがいて、あの巨体が樽の中に入っていると
想像して面白くなって、この句を採ってくだ
さった方がいた。樽ではなくて壷にすると
「アリババと四〇人の盗賊」の場面になって
しまい、句が痩せると思いこんでいるのだが、
どうだろう。
2004.8 「樹」148号掲載