作品展望140「樹」146号を読んで

  さざ波の向こうで悪のススメ         

 広重静澄さんの『さざ波の向こうから』出版祝と美禄句会百回が重なった。彼の愛妻智子さんとの俳句の縁も披露してもらって、楽しい、嬉しい五月三十日だった。
 今年も梅の実をちぎった。もぐというのか採るというのか、林檎狩り、柿狩り、茸狩りとは言うけれど、梅狩り、桃狩りとは言わないのはどうしてだろう。
 多分三十年以上は経っていますと、六十代のご主人は仰る。小倉の旧山田弾薬庫の近く、緑の多い一画に無農薬栽培をご趣味でなさっている。梅も消毒も何もなし、自然のままだから虫もいますよというので、長袖長ズボン長靴の出で立ちで向かう。小粒だがどっさり。良い匂い。日記広場で伺ったのだが、この日が三回目の何にも喋らない子が、ちょっとした森のような梅の木の下で「そこにあるよー」と大きな声で何度も教えてくれた。実は前日みんなでクッキー作りをしたのだが、彼女が丸めたクッキー種を「少し大きいね」と無造作に小さくして彼女に渡したら、受け取らなかった。結果より経過が大事と言っているのにその反対をしてしまい落ち込んでいたので、彼女の声は天使の声だった。緑に染まった嬉しい、楽しい六月六日だった。
  饒舌の後は五月の雨の音       矢野 澄湖
 五月雨というありふれたいい方をしないところがいい。五月の雨の音が、おしゃべりしすぎたかなと言う微かな懺悔を癒やしてくれるようだ。季語に使われず、季節の言葉を生かしている。

春愁の点滴ゆっくり落ち始む 吉田 佑子
 上五「春愁の」の「の」がくせ者である。
一春愁の気分の時、点滴がゆっくり落ち始めた
二春愁という銘柄の点滴が落ち始めた
そんな馬鹿なと思われる方もあるだろう。二が何故成り立つのか。春愁とは春の物憂げな、いわばまったりした時間を言う。だからそういう時間の幅が既にある時に「落ち始む」では計算が合わなくなる。「落ちている」なら納得できる。あるいは「春愁や」と切ると、もっとわかりやすくなる。「の」で繋いでいるから誤解が生じる。がそれでは平凡である。従って「春愁の点滴」のほうが魅力的に輝く。なんと面白いいい方だろう。佑子さんがどう言おうとわたしは春愁ブランドの点滴を受けたい。
脱糞前の不安と祈り菜種梅雨    足立 雅泉
 雅泉さんがお住まいの地に二人の知り合いがいる。ひとりは長男の幼児生活団仲間の親御さん。もう一人は最近知ったのだが、アマチュア落語家の三浦浦三さん。スーパーのオーナーなのだが、小話の面白いこと。樹の百五十号記念の催しがあるなら、お呼びしてみんなで笑おう。彼が駄目なら小倉に山椒家小粒さんという、足のサイズは二二センチだが、天下の落語家と評判の人も知人である。樹同人は、みな真面目だ。俳句は俳諧と言われていたように、少し面白みがあっていい。虚子以降、なんだか真面目な人生訓を読むようになって、初めはそれも良いだろうが、飽きてくる。人生の凄みをわずか五七五では表せないと言うことに気付こう。俳句は一部分で良い。切り取ったスナップで良い。説明は要らない。読む人に任せよう。それくらい脳天気で作らないと、俳句が苦になる。そこで雅泉さんの句。樹に燦然と輝くではないか。脱糞の句にこういうのがある。七月の童糞せり道の上 石田波郷
 調べたわけではない。ある公民館の春の講座で「楽しく書こう」を担当したのだが、話の徒然に俳句をやってますと言ったら、講座修了後に、七〇代の受講生から葉書が届きこの句が書かれ、自作句も。これは今から四〇年前の句とか。もっこりと萩路ふさぐ童糞     内野 斉
三歳のお嬢ちゃんの「オトーチャン、ウンチ」という場面のあとだそうだ。
競馬場風をきりさく馬たちよ    井手口 仁
 北九州の小倉にも競馬場がある。広い敷地は緑が多く、今風に明るい洒落た建物だ。昔のなんだかわびしい競馬場にしか行ったことがないので、もう一度行きたいと思う。仁くんは高知競馬場で馬の走るのを見たんだね。風を切り裂いていたんだね。そういう風に感じる仁くんの感性、素敵だね。そこで上五を考えてみよう。競馬場で見たのだから「競馬場」と入れる。一番簡単だ。しかしそれでは説明になってしまう。俳句は説明したらまずいのだ。俳句が死ぬ。説明文は詩ではない。 俳句は短歌や詩と同じで短詩系の中に入る。世界で一番短い詩なのだ。この短さで心が動いた事に絞って言葉を組み合わせるという、素晴らしい場を私たちは持っている。凄いなあと何時も思う。だからどうしたら説明でなくなるかを考えて欲しい。
  
郵便のことりと届く通信句     伊藤 キクエ
なんだか気になる。気持ちが伝わるのだが、言葉が上手く並んでいない。でも、とっても心に響く。情景を整理してみよう。通信句が郵便箱に届いた、その心躍りをキクエさんは読みたかったはず。すると通信句と郵便が重なるので、通信句を残す。丁度若葉の頃だとすると
 若葉風ことりと届く通信句 としたらどうだろうか。上五が動く弱さはあるが、キクエさんの言いたいことは伝わるのではないだろうか・
  地雷なきくにの山河よ栗の花    猪ノ立山 貞孝 地雷で手足を失った子どもの写真を見ると、心が波立つ。危険と隣り合わせでも、そこに生活しなければいけない。日本は戦後六〇年経ち、平和である。しかし子どもの心は病んでいる。それはおとなの責任だ。物質の豊かさに目がくらみ、子どもに正義や勇気や誠実さを教えることを省いてしまったおとなの責任である。子どもが勝手に事件を起こすのではない。社会の空気に汚染され、おとなはずるいから自己防御するけれど、子どもの純粋さはかえって影響を受けると思う。では事件を起こした親の責任かというと、それも一概に言えない。その親を育てた社会の責任なのだ。土の恵みではなく、化学物質に囲まれると、精神が枯れる。豊かな心の人間になりたいと地雷のない地で思う。そこに「栗の花」はよくついている。濃厚な香の栗の花には人間の恥部を感じさせる力がある。蓋をしておきたい感情を呼び覚ます。それが地雷とあっている。

  気に入らぬ風の吹く日の鯉のぼり  魚返 サツ子
鯉のぼりは風さえ吹けば上機嫌で泳いでいるとばかり思っていた。そうか気に入らぬ風も吹くのだなと、面白い。

  ポストまで青葦原を脱ぎながら   木原 ゆう
下五がわからない人が多いだろう。わたしも判らない。しかし「青葦原を脱ぐ」というのがエロチックで面白い。
母の日や白髪が増えたの僕のせい  佐藤 敏彦
 仁くんから質問が出そう。これは説明じゃないの?と。断言する。説明ではない。これは独白。心の言葉がそのまま五七五になったと言える。だから詩があると請け負えないのだが、こういう呟きもいい。

  客に出す羊羹二切れ庭つつじ    島  貞女
これも説明と詩の際どいところにある。お客に二切れの羊羹を出した。庭にはおりしもつつじが満開、と言う情景。いい空気が漂っているから詩なのだ。これが言葉の力。

  酢屋坂の夕日に股を覗かるる    宗  五朗
  薫風を歩いて酢屋の石の坂     林  照代
 酢屋坂をインターネットで調べてみると杵築と京都にあった。京都は坂本龍馬がらみ。五朗さんは京都で照代さんは杵築かなと想像している。地名を使うと楽しい。

  眉引いて夏の空気と思いけり    堀井 芙佐子
 眉を引くという行為の中、ふと夏の空気を感じた。これが詩。こういう句が樹集に増えたら、面白いなあ。

   菜の花やキリストの手と佛の手   松田 眞弓
 キリストと仏陀が菜の花畑で手を繋いでいる風景が突如浮かんできた。ここには詩がある。
2004.7 「樹」147号掲載