作品展望138「樹」144号を読んで

    悪のススメ                  鍬塚 聰子
 昨年秋より長男の母校の小学校に図書室支援で、昼休み行っている。校門までの坂道にある櫻が咲くのを心待ちにしていた。いつも遠目に春霞のように咲いている景色は眺めるのだが、近くまで行くことがなかった。創立七十年を過ぎた学校なので櫻もそれくらいの樹齢だろう。福岡の開花宣言の三月二十日以前に一輪見つける。そしてこの十日まで花を楽しむことが出来た。だいぶん咲いたなあと心嬉しく見たある日、終業式の二十四日だったが、地面が白っぽい。櫻の花が落ちている。風が強くて散ったのかとよく見ると、花びらではなく五弁付けたままである。まだ白いまま。充分開いての落花はその花びらはほんのりと薄紅で縁取られるから違いがわかる。一体どうして、ひどい、可哀相、誰かが棒でも振り回して落としたのかしら、それとも花が咲いたあと寒かったから弱って落ちたのかしら、あるいは楊貴妃櫻のように房なりに落ちる品種なのかしらとあれこれ考えた。しばらく櫻の木の下に居たら理由がわかった。目白だった。萼筒のところをちょいとつついて蜜を吸っている。ためしに口に含むと甘い。櫻の蜜を吸う目白。今まで知らなかったなあ。
  子叱りて春光いよいよ眩しかり   宮本 千賀子
 子どもを一回も叱らなかった親はいない。その子のためを思ってと思っているが、実は自分の都合で叱っている場合が多い。あるいは叱る原因は子どもにはなく、親の準備の悪さだの考え間違いだの、叱る必要がないのに叱っていることもある。それを全く気付かなければ、子どもに尽くしている親という自己満足で終わる。千賀子さんは叱ったあとのなんともいえぬざらっとした心持ちを感じ、春光が眩しかったのだろうか。
  
  花時の受話器ガチャリと置かれたり  吉田 佑子
 花時と受話器の組み合わせがいい。昔の黒電話だと花の色との対比で尚更いい。詩を感じる。それで「ガチャリ」は何を意味するのだろう。せっかくの花時なのに花のことにも触れずに用件のみで相手は切ったのだろうか。兼好法師の徒然草に雪が降った朝、手紙を送ったのに雪のことに触れずに用件だけを書いたものだから、相手から無風流ね、そんな人の言うことなんか聞かれませんと返事が来たという一段があい、それを思い出した。含みのある句だ。
何かしていないと壊れそうな春    餘野 スミ子 壊れそうな春、中原中也の春のようだ。春は壊れるわけはないのだが、あの寒さを抜けてやっと巡ってきた春、三寒四温の言葉通りに寒くなってもそこまで春は来ているのだけれど、するっとくぐり抜けて落ちていきそうな春。詩的な話から実務的な話になって恐縮だが、我が家は暖房の灯油ストーブをやめた。灯油をエレベーターなしの四階まで運ぶのがこれから大変だからだ。だから、エアコンは嫌いなのでハロゲンヒーターを頼りにしていたら春を目前に壊れてしまった。だから、じっとしていると寒い。だから何かしら躰を動かしていた。こういう解釈は詩的ではないが、実感としてよく判った。

男遠くなりゆく干し大根軒に    足立 勝元  
 どんな男だろう、遠ざかってゆく男の後ろ姿が好もしく感じられる。干し大根が干されて甘みを増すように、人生の奥深さを感じる。ごちゃごちゃ説明はいらない。確かな言葉が確かな風景と人生を映し出す。

  日月の栞のごとく鳥雲に      太田 一明
 美禄句会で私一人採る。特選。どちらかというと「ごとく俳句」は嫌いなのだが、この句は文句なしにいい。日月の栞という比喩が生きているから「ごとく」があってもなんの障りもない。日や月は文字通り太陽と月、あるいは歳月をさしてもいい。それらは私の人生の「栞」なのだという感慨が鳥影の消えていく空を眺めて生まれたことが素晴らしい。観念と実景が上手く調和している。

  冬銀河ひとりぼっちの魚たち    佐々木 雲恵
 魚は群れて泳いでいる、という概念を覆す「ひとりぼっちの魚」という言葉に賛否両論だろう。曰く言葉が生きている、曰く言葉が遊んでいる。冬のきらめく銀河の対比として魚という微少な存在を持ってきたところは面白い。魚に「たち」という複数形がついているのが気になる人もいるだろう。それぞれの魚が孤独なのだからこれでいいとも言える。冬銀河の大きさに拮抗させるには具体的な魚の名を持ってきた方がいいだろう。が、それが一番難しい

  七癖の我の手に在り土筆かな    重松 順弥
 なくて七癖の七癖を冒頭に持ってきたところが面白い。そういう自分が無心に土筆を採ってたんだと振り返る一こまに俳味が感じられる。手に在る?

  信じる不安弥生地層へ春の雨    竹原 とき江
 弥生地層に降る雨という言葉を紡ぎ出すとき江さんに柔軟な詩心を感じる。それが「信じる不安」を抱えての春の雨となるとさらに深まりがある。信じたいけど信じられないのではなくて、信じている、でも・・・・という自分自身の不甲斐なさへの不安なのであろうか。いま私たちは生きている。が、イラクで三人の若い民間人が自衛隊撤退要求の人質になった事実、政府は建前で「テロには屈しない」とお題目を唱える。我が子が掴まって生死が風前の灯火なのにそんなこと言えるだろうか。そういういろんな不安が私たちを取り巻いている。雨は弥生地層に静かに降る。

  達筆の書は憂し花の咲くは憂し   姫野恭子
 確かにそうだ。達筆の手紙はその達筆さにまず読みとることが先決となり、伝えようとした心を読みとる前に疲れるような気がする。花も然り。花が咲くのは嬉しいが、咲いたと散ったとか噂に聞くだけでお花見しないままに花時が終わり寂しい心を抱えてしまう。達筆と花の取り合わせはまことに言い得て妙である。この微妙な繋がり具合が現実の重みを、詩として軽くする。

  慶事とはかくの如しか揚雲雀    広重 静澄
 好評連載の「さざ波の向こうから」の御上梓おめでとうございます。かくの如しなんでしょうか。その高揚した気分が揚雲雀でぴたっと着地成功。一明さんのところでも「如し」俳句は採らないと言ったのに、あえてこれを取り上げたのは慶事とかくの如しのK音の重なりが心地よかったのかもしれない。本誌にエーセーを書き出して静澄さんは俳句が上達したと感じる。
  雑魚寝して節穴を出る春の風   増谷 信一
 春の風が木のうろに雑魚寝している光景がとても面白い。そして、じゃあお先に、と出て行く風。とてもユーモラス。纏まって破綻のない句を読む信一さんのイメージが変わってきている。のびのびした句。

妹のこんなに小さく氷踏む     松山 愛子
 冬の朝、道の水たまりに張った氷をばりっと踏み割るのは快感である。舗装道路だらけで土の道路などない都会ではもう見られない(と遠い目)。この句の良さは「こんなに小さく」にある。どれくらい小さいとか具体が出ていないではないかと、日頃具体的にと述べている私に反論が来るだろう。しかし「妹」なのである。そこで小ささを類推して欲しい。」

  背筋の少しゆるみて桃の花    松田 真弓
 桃の花の質感と背筋をゆるめる感覚に共通点がある。これを同質ととり、うん言い得ているなと感じるか、どうして背筋なのと結びつかないと思う人がいる。だから俳句は面白いのである。

  みみみみみむみめむまろっとさくらもち 今仁崇寛
お見事!桜餅が美味しくて食べる前から食べ終わっての感覚を言葉にするとこうなる。おとなには真似できない。

2004.5 「樹」145号掲載