作品展望137「樹」143号を読んで

    話すように悪のススメ                  
 二月二十二日に櫻の植樹をした。場所は小倉南区井手浦。平尾台の近くで浄水場のあるところ。十年前に知って以来、夕暮れ時の櫻見物を時折楽しんでいた。櫻が綺麗なのは知られていないので人が少なく、いわゆる花見の喧噪と焼き肉の匂いがしないので、人に教えつつ、人が増えないほうがいいと思う穴場。植樹は市政たよりで見つけた。日記広場と美禄句会で申し込む。当日は予報では雨だったが、薄日も射し、月代さんの車で出かける。植えるための穴は五十aの深さがいるらしい。それで静澄さんの男手を頼む。
園芸用のシャベルしか持って行ってないのだが、井手浦の方が小型シャベルカーでガガガと掘ってくださって一安心。真土や肥料やプレート付で五百円の参加料は安い。ただ、水やりなどの面倒は植えた人がしてくださいとの地元の話。櫻植樹の成功率は低いらしい。でも終わったら土砂降りで暫く水やりの心配はいらない。月代さんが一週間後見に行かれた。わたしは三月十日に見に行く。その間にも雨は降ったし、大丈夫なようだ。元気に育ってねと櫻の苗木に声をかけた。人が人以外の命あるものと声を掛け合う日常の中から、豊かさが、詩が生まれるような気がする。
  菫咲く母性父性のあやしくて     増谷 信一
 児童虐待事件が目立つ。一九七三年五年生だったディビッドは実母からの虐待で喉はアンモニアでただれ、腕も漂白剤で皮膚はぼろぼろ、シャツは二年間着たきり、学校の要請で保護された。その後幾多の苦難を自力で乗り越え、現在は児童虐待防止運動に力を注いでいるらしい。その彼ディヴ・ペルサーさんの書いた「Itと呼ばれた子」を最近呼んだ。さらに「シーラという子」七〇年代のアイオワ州での実話。これは実母からハイウェイに置き去りにされ、実父から憎まれ、叔父から性的虐待を受けたシーラという子を受け持った教師の記録で、シーラを愛する心が伝わる。続編の「タイガーと呼ばれた子」も読みたい。
 さて、時事俳句としてこれを読むと「あやしくて」が
いわゆる母性本能父性本能がおかしくなった世相をさす。しかし時事俳句と固定することはない。数千年の人間の歴史を振り返ると、文明や文化の前の母性父性、いや人間の本来持っていた能力のいかに衰退したことか。動物の子を守る本能を涙ぐましいとか褒めそやすが、それは絶滅しないための本能であって、人間があまりに機械文明で守られているから、自己の種を守る意識は薄れている。自分の身を守る防衛本能だけが残っていると言えよう。そういう歴史の流れから「あやしくて」哀しい母性父性であろう。
  
  啓蟄や玄関の鍵付け替える     宮川 三保子
 たまたま啓蟄の頃に玄関の鍵を付け替えた。それが単なる報告俳句に終わらない味を感じる。虫が穴から出るから変な虫も出る?じつは我が家も最近鍵が一個なくなり、こそ泥が入った形跡があって鍵を付け替えた。そういう経験が下敷きになってこの句が目についたのだが、そうすると「啓蟄」でなくても「菜の花や」でも良さそうな気がするのだが、読者は如何?

  雪景色ゆっくりしずかに落ちてくる  秋山 修恵
  雪景色を眺めているとまた牡丹雪がはらりと降ってきた。なんと美しい。そんな情景を以前の修恵さんだったら「牡丹雪ゆっくりしずかに落ちてくる」としただろう。それを一歩踏みとどまって、説明を避けた。そうすると実際は雪が降っているのだが、だまし絵風に「ゆっくり静かに落ちてくる雪景色」の存在を感じる。雪景色が落ちるわけないというかちかち頭にはわからない世界である。

  気持ちだけ先行く朝の寒椿     穴井 栄子
 気ばかり焦って・・・・よくあること。「寒椿」がぴったり。欲は「気持ちだけ先行く」様子を具体で表現すること。これは難しい。しかし挑戦する気持ちを持ち続けて欲しい。寒椿という季語を斡旋した力を持ってすれば可能。

  万作の花の何処かが咲き忘れ    穴井 美代子
 ぽったりとした黄色の花の万作の一部分蕾の状態と自分の心の鬱屈し晴れない部分を重ね合わせたのだろう。万作の花を知っている人にはなるほどとうなずける句。なかなかいいのだが、「何処か」という曖昧な言葉が気になる。これも具体で表現して欲しい、と注文するのは簡単だが、実際は難しい。やっぱり「何処か」だろうか?

  残菊という濁音の美しき     猪ノ立山 貞孝
 濁音はきたないという固定観念から抜け出た貞孝さん。平安時代の女性はあまり濁音は口にしなかったらしい。ガギグゲゴザジズゼゾという濁音はかなり鼻濁音で発音されていたらしい。清音を好むDNAが強いのだろう。しかし残菊の美しさを愛する貞孝さんはその呼び方も愛してしまった。こういう思い入れを強くするとそこに詩が生まれる。常識の範囲外が詩とは思わないが、見方を変えることで詩が生まれることを脳裏に入れて欲しい。「俳句をせんとや生まれけん」なのだから、大いに俳句で遊ぼう。
  
  たそがれへ杭うてば哭く春の風  沖  隆史
 一般常識としてこの句から浮かぶ情景は、だれかが夕暮れ時に杭を打っていて、春の風が強く吹いている、だろう。しかし、わたしは、たそがれという形にできないものへ杭を打ち込んでいる、いわば心象風景と捉えたい。実体のないものへ杭を打つ、これを徒労といわば言え、そうせざるを得ない切迫した心持ち、だから風は吹くのではなく「哭く」のである。

  春一番二番三番婚約す      木原  ゆう
 樹に新風が吹いた。何番でも吹いて欲しい。ゆうさんの句の歯切れの良さ、そしてユーモア。

  御正忌の背中丸める人ばかり   古原 冨美子
 陰暦十一月二十八日、浄土真宗の開祖親鸞上人の忌日を御正忌という。在家往生の実践で肉食妻帯し九十歳で示寂。
彼が今の世に生きたらなんと言うだろう。元気のない背中丸めた人にきっと喝を入れてくれるに違いない。
 
  ひよこ売るあったかそうな紙の箱  小森 清次
 あったかいのは小さな雛であって、それが入っている紙箱が暖かいわけではない。しかしそう思える人間のいや子どもが雛を欲しがるのだが、子どもの目には暖かく感じるはず。面白うてやがて哀しき・・・・縁日の雛が鶏になって卵を産んで・・・というはなしはあまり聞かない。
  日輪の高さに遊ぶ寒雀       佐藤 綾子
 冬の日に遊ぶ雀。綾子さんがふと気付くと、いつも雀の向こうには日輪があった。それは冬の日の澄んだ青空に輝く日輪ではなく、少しくぐもった空に微かにわかる日輪のような気がする。

  菜を茹でて躰弱しと思いおり    鮫島 康子
 康子さんの俳句は自然体だ。青菜は躰にいいのよねえ、でもちょっと躰が弱ったかなとの呟きがそのまま俳句になっている。何回もの入院手術などにもめげず、毎年新年俳句大会に参加される康子さんに嬉しく思う。康子さんには「うまい俳句を作ろう」という邪念がない。あるとしたら「気持ちよく俳句を作る」だろう。過去現在のあるがままの自分を認め受け入れ、それをそのまま話すように俳句にしているところに康子さんの俳句の魅力がある。先日NHKアナウンサーの朗読を聞いた。で、一番上手い老齢のアナウンサーは「一番上手な朗読は、話すように聞こえる朗読です」と言われた。俳句もただ言葉を連ねるのではなく、康子さんのように話すように言葉が出るように作りたい。 
  末黒野や又物語始まらん      澄 たから
 野焼きした黒々とした風景に、新たな芽吹きを人は感じる。それを「物語」と集約した点がいい。ただ又は不要。何物語と具体を重ね合わすと広がりが生まれるだろう。
2004.4 「樹」144号掲載