作品展望136「樹」142号を読んで

   冬薔薇と 悪のススメ                  
 北九州の門司に風師山がある。標高三百何十メーターという低い山だが、眺めがいい。頂上にある大きな石によじ登ると、関門海峡が見える。その向こうは響灘で日本海に続く。関門橋の向こうは本州で、瀬戸内海になるのだろうか。後ろを見ると周防灘である。こんなに海が見えるところははじめてで感激してしまった。海を見ると心が爽やかになるのだが、たいていは前方向である。このようにぐるっと海が見渡せると嫌なことは、すっと飛んでいってしまう。北九州に長年住んでいても風師山はあまり馴染みがない。月代さんが風師山の中腹、清滝神社の近くに「すいげつ」という喫茶店が海が見えるからと連れていってくださった。紅葉を楽しんだが、頂上までは行かなかった。後日一明さんとお二人で頂上に立ち、絶景だったと句会で教えられたのがずっと心に残り、二月初旬に行く機会を得た。
一度降りてまた上る山道は、微かに雪が残っていたが、山芋掘りの穴がいくつもある。零余子でもないかと注意してみるが、根こそぎという感じ。そのかわり冬苺を見つけた。樹集に冬苺を探すが見あたらないので「冬薔薇」を中心に読んでいこうと思う。
  舌尖が痺れるように冬薔薇      山下 整子
この句をぱっと見たとき、二十歳の芥川賞受賞者金原ひとみさんの受賞作「蛇にピアス」を思った。蛇の舌は二つに分かれている。そういう舌をスプリットタンというらしいが、舌にピアスをつけることで、そうなるらしい。それに憧れる少女の話。耳に穴を開けるのでさえ痛そうなのに、身体に穴を開けていくのはどんな気持ちからなのだろう。本屋で立ち読みしようと見回すが見あたらない。それで書評から推測するしかないのだが、いわゆる自己存在の確認のひとつなのだろう。生きていることが不安だからと自分の意志でピアスや刺青などの人体改造をする気持ちはわからないではない。二十歳なのによくこういうふうに書けるなという思いと、二十歳だからこそ書けるんだという複雑な思いで、読んでいて痛かったと三十代後半の友人は言う。整子さんの句に戻ろう。冬の寒さに手足が痺れると書けば当たり前でしか過ぎない。舌尖が痺れるという感覚は冬の薔薇の孤高の美しさにぴったりと感じ入る。この薔薇はもう咲き崩れ、散る寸前のような気がする。舌先が痺れるのは若い蕾の時ではないだろう。
  垣根越しグーを出してる冬の薔薇   穴井 栄子
 この薔薇は蕾である。もうすぐ開こうとする大きな蕾なのだが、冬の寒さにまだまだ開くには間があるようだ。冷たさ暗さのなかの明るさが感じられる。それでもっとすっきりした形にしたい。助詞の「を」は散文的になる。「グー出している」と助詞を省いてみよう。内容は全く同じだが、声に出して読んだとき微妙に違っていることに気付かれるだろう。俳句上達の一つの方法は「声を出して俳句を読む」ことである。俳句の原点である大和歌は必ず朗唱された。そこに魂があった。俳句にもそういうものを取り返したいと強く思う。

  冬薔薇や整形外科にゆく話      魚返 サツ子
  冬薔薇田舎なまりのままでいい
 整形外科の句は「ふゆばら」と読む。田舎なまりは「ふゆそうび」としか読めない。冬薔薇整形外科では漢字が七つも重なるからと切れ字を入れたのだろうか。わたしの好みでいえば漢字七文字続いていたほうがいい。さっきも書いたように声に出して読めばきちんと冬薔薇で切れるからだ。「ふゆそうび せいけいげかにゆくはなし」と読むと二物衝撃が際だってくる。そこに詩的な雰囲気が漂う。「ふゆばらや せいけいげかにゆくはなし」と読むと、整形外科でばらばらになるという変な連想をしてしまうのは、わたしの感覚がおかしいのかもしれないが。
  冬薔薇昏き呪文を繰り返す      木村 直子
 前号で入会と知り嬉しかった。小倉句会ではご一緒だった。だからつい昔に返って言いたいことをいうのだが、呪文を繰り返すでは当たり前すぎる。初回なので大人しい句を出されたのだろうか。むしろ「いかのぼり滞空時間のある微熱」の気怠さといささかのアンニュイに直子さんの詩性を見つけて嬉しい。新しい刺激を樹にいただけることも嬉しい。

  冬薔薇時には手抜きなどもして    仲 三千子
 薔薇と手抜きの取り合わせが面白い。何に対しての手抜きかが具体的に書かれてあるともっと面白い。「時には手抜きの厨事」などと作ればいいのである。嘘から出た誠になってもいいではないか。真面目な人ほど手抜きが上手に出来ない。三千子さんもここで手を抜けば楽だけれど、と思いつつ手が抜けない性格のようだ。だから虚構を書いて遊ぶといい。虚構で遊べと書くと真面目な方は首をかしげるに違いない。「言葉には真実がある。言葉には力がある」とわたしは繰り返し言っている。それなのに虚構で遊ぶのは矛盾ではないかと。それに答えるには「言葉はゴムのように伸び縮みする」虚構も真実も実は同じなのである。ぎゅーっと凝縮されたのが真実であり、極限まで伸ばしたところに介在するのが虚構なのである。もっと簡単に言えば、言葉を使う人間が真実なのである。
  冬薔薇饒舌過ぎる医師であり     古永 房代
 薔薇と医師はかなり同質と考えていい。が、饒舌な薔薇はまだ許せる。花びらが幾重にも重なった重たげな薔薇を想定すればいい。が、饒舌な医師は我々の感覚からすると違和感がある。何かを誤魔化そうとして饒舌なのではあるまいかと疑う。あるいは医師は寡黙という不文律に私たちが縛られているからかも知れないが、饒舌な医師への不信感が生じる。が、房代さんは自身では決定しない。この微妙な間合いを「上手い」と言うのだ。

  歳月あり海の向こうの冬薔薇     鮫島 康子
 海の向こうの薔薇とはどんな色だろう。康子さんにしては非常に抽象的な言葉だ。「ガーゼのように」とか「一筆書きの魚」とかいつも具体を書く康子さんなので、気になる。

  通夜終えてとろんとのぼるオリオン座 依田 しず子
 「とろん」というのは擬態語でしかないのだが、わたしには擬音に聞こえる。オリオン座は通夜のあと「とろん」とのぼるのだと納得してしまう。これが言葉の力なのだ。
ひょっとしたらしず子さんは魔女なのかも知れない。魔法使いの物語ハリーポッターがベストセラーになっているが、魔法は此の世に在るのかも知れない。わたしがこうやって作品展望を書いているのも、実は何かの魔法ではないかと思うことがあるからだ。いや、神の恩寵かもしれない。
いやいや、句を出される方々の力がわたしに影響を及ぼしているに違いないと感じる。

  羽抜鳥タオル固めにしぼり置く    竹原 とき江
 タオルを固めにしぼるという律儀な動作と羽抜鳥とは異質であるだけに好悪が分かれることだろう。病人のためのタオルだろうか。ある意志があっての固く絞るタオルであろう。昔子どもが幼かった時、朝の冷水摩擦のためにタオルを固く絞って枕元に置くのが就寝準備の一つだった。固く絞れば朝は乾布摩擦のタオルのなるのだから、必死に絞っていた。忘れた日はこっそり親が絞ってやったこともある。謎めくが気になる一句。

  触診の医師の手温し凍みガラス    合原 正利
 凍むは凍ると同じだから、ガラス窓が寒さで凍っている状態。外の寒さに比べ触診の医師の手の温かさが伝わる安心感がこの句の眼目。  

  東洲斎寫楽が海へ刷る初日       瀧  春樹 写楽は浮世絵師だから彼自身が刷るわけではない。しかし初日を海へ刷るというこの虚構の壮大さが、どんな文句の口をも閉じさせる力を持っている。虚実皮膜というのがこのことだろうか。声に出して読むともっといい。
2004.3 「樹」143号掲載