作品展望132「樹」138号を読んで

   常識で言えば 悪のススメ                  
 前号で触れた山椒家小粒さんは、学生時代に新宿の末広亭で聞いた故古今亭志ん朝師匠の「野ざらし」の艶のある話しぶりに傾倒、それで自分も落語をやり始めたんだから凄い。大阪高槻にある「噺の会じゅげむ」を本店とし、この春小倉に転勤になったことから小倉出張所を旗揚げしたところ、日記の広場の落語好きなお母さんの目にとまり、
彼女の後押しで、北九州に出来たリバーウオーク内の朝日新聞さんさん広場に月一回の高座を持つことになった。その前からゆんたす珈琲店でのプチコンサートに落語と沖縄音楽を企画していたのだが、話は盛り上がり、わたしと彼女は親子ほど年が違うのだが、北九州の市花にちなんで「向日葵姉妹」日向(ひむか)の小さとと葵の小きみと芸名ももらって、十月十九日は三味線の側で太鼓を叩く役を仰せつかった。なりゆきとは面白いもので、落語は落語家が楽しくやってるのが一番と聞いたものだから、三味線は弾けなくても太鼓叩くのは面白そうだなと思った次第。
 俳句もそうだ。軽々と出来なくても、苦労して作ったあとにほっと笑みが浮かべば楽しいと言うことになる。樹が長続きしているのは、そういう人たちが多いからだ。
  朝日一直線に届き残暑かな      野田 直美
夏の涼しさに比べ残暑の厳しかったこと。でも直美さんは今日も暑くなりそうな気配を漂わせて昇る朝日を「一直線」と捉えた。これが若さなのだと深く感じた。

  短気より一歩上位に秋の空      原 サカエ
 腹立たしいことがあって嫌な気分で秋空をみたら、その透き通った青さに、自分の腹立ちは小さいことのように思えてきた。そういう場面の句だと思うが、そこのところを「一歩上位」という表現で端的に表したのが手柄だ。短気と青空では比べようにも比べられないものだが、そこにユーモアが漂って、作者の意図より一歩上位に位置するところに俳句が一人歩きしたようだ。

  花芒をとこ泣かしてしまひけり     姫野 恭子
 鈴木真砂女さんの 羅や人悲します恋をして 『生簀籠』
を思い浮かべてしまった。最近隆史さんや信一さんの恋の句に刺激されて作ろうとするのだが、もたもたして作れない。恭子さんの句の潔さにあこがれる。類句があったとしても、構うことはない。たとえ泣いた「をとこ」が次男の崇寛くんであっても、この句は素敵だ。そこで彼の
夜の雨下から上に降っている     今仁 崇寛
雨は上から下に降るものだと思いこんでいるおとなはこんな句はつくれない。漱石の弟子だった寺田寅彦はその随筆の中で「二階から雪を見ていた女の子が雪が下から上へ降っていると言った」と記している。で、それを思い出して雪の降った日、二階から眺めたら、確かに下から上へ降っているように見えて感心したことがある。きっと夜に見る雨は、下から上へ降るように見えるだろう。夜の雨のありのままを、常識に毒されず詠んだ崇寛くんの感性は素晴らしい。だから芭蕉は「三尺の童子」に俳句を詠ませるべきだと言ったのだ。常識というのは生活していくうえでは必要だが、俳句を作るときにそれを用いると、正しい常識は固定観念という黴の生えた代物になり、俳句をつまらないものにしてしまう。ただここで「つまらないもの」とわたしの口は滑ったが、身の回りの自然や風物にきらりとしたものを発見して作られた俳句にはまた違う面白さがある。
 発見は心の動きであり、心が動くことで言葉も命を持つ。そういう俳句は当たり前のことを述べているようだが、一読はっと心惹かれたり、何度か詠んでいるうちに妙に目に留ったりと、不思議な力を樹の紙面から感じることがある。その句に立ち上る雰囲気を私が感じるようになったのだろうか。だから、疲れたときに樹を開いてもなにも感じないことがあり、俳句を詠むのはエネルギーがいる。けれどそうやって紹介した句の作者から感想を戴くと、とても嬉しくなる。しかしその機会は数えるほどだ。作品展望を書き続けさせたいと思われるならば、作品展望を読んでの雑感をお寄せください(とこれは半ば脅迫ですかな) 豚もおだてりゃ樹に上る。あっ違った。ともかく私はそうは思わなかったでも何でもいい。句会では意見を言えば、そうだとか違うとか考えが飛び交って楽しい。だから我らが美禄句会も九年。作品展望にもそれを望んでいる。
  
  塾生は無言ひまわりに見送られ    古永 房代
 戦後の学校教育の弊害が昨今の世情に顕わなのだけれど、方向転換が自立的に出来ない日本の体質から、学歴社会は当分続く。だから、こんな哀しい光景もあるが、ひまわりが見送るという擬人法ではなく、無言の塾生の背景にひまわりが咲いていただけ述べるのはどうだろう。言い足りないかも知れないが、そこで言いやめることで句に陰影がつき、ふくらみがあるのではないだろうか。

  新松子坂の途中を迷いけり     堀井 芙佐子
 坂の途中で迷うわけないじゃないと思うのは常識。芙佐子さんは途中で迷ったのではなく「途中を」迷ったのである。こういいう書き分けの出来る力は凄いものだ。
  eメール開けば白桃のあらわれる  増谷 信一
 メールの待受画面が白桃なのね。これは一般常識。白桃は豊満な女性の象徴じゃないか、これは官能的な句だ。と取るのも心理学の常識に毒されている。信一さんはメールの内容の爽やかさを言いたかったのだ。

  ナヌムとは分かち合いのこと通草燃ゆ 山本 伽具耶 山で通草を見つけて驚いたのだが、一個ぽつんと搗いているのではなく、群がると言うのが適切だが、たくさん一カ所にくっつきあっている。しかし伽具耶さんはそういう実を人間も貰い、鳥や小動物も味わい、残った通草の葉の紅葉を述べているのだ。ここが憎いところである。上句がこうやって生きてくる。

  地球ならシベリアあたりスイカ割る  依田 しず子 一読明瞭、抱腹絶倒。こんな西瓜は美味しいだろう。

  火星から地球眺める虫のいて     天野 おとめ 火星に虫がいて、火星接近、6万年に一回とか騒いでいるのを眺めているかも知れない。しず子さんの句もおとめさんの句もスケールが大きくて、ほーっとする。

  広島忌蛇口の水をとばしけり     阿部 禮子
 句会でこの句が出たらわたしは特選にする。蛇口の水を飛ばす事への郷愁(昔、よくしていましたね)と単に解釈してもいいし、原爆に被害にあった多くの人が「水、ミズ・・・・」と言いつつ命を落としたことを思うとき、蛇口の水を飛ばすことは鎮魂でもある。原爆で亡くなった広島・長崎の人たちは、まだ成仏出来ていないのではないかと感じる。特に爆心地の死ぬと言う意識なしに霧散した命は日本中をさまよっているのではないだろうか。わたしたちが、広島忌・長崎忌だけではなく、毎日祈ることをしなければ、彼らは救われないだろう。

  棚経の僧慇懃に去りにけり     井上 ちかえ
 棚経とは盂蘭盆会の精霊棚の前で僧が読経を行うことと大辞林で知った。秋の季語。「慇懃」という言葉一つで、このお坊さんの徳の高い感じが生まれる。一般には慇懃無礼という四字熟語で使われることが多いので悪い印象があるが、本来は相手を思いやる心が動作に現れて丁寧な事である。供養の経を読ませて頂いて有り難いというお気持ちからの挙措とちかえさんは感じたのだ。
 取り上げたかった句
  折り紙の折れ線深き晩夏かな    魚返 サツ子
  鳥雲や後ろ姿に声とどく        鹿島  貞子
  蝉時雨丸ごと家を揺らすかな     河野 寿美江
  筆無精月は田舎の雲に消ゆ     重松  順弥
  王国は夏よろよろと後じさる      宗   五朗

2003.11 「樹」139号掲載