作品展望131 「樹」137号を読んで

  二胡ニコと  悪のススメ                  
 最近東洋の芸能に縁が深い。九月号で箏と尺八の演奏会に触れたが、八月二十六日(火)の日記の広場では二胡の嫋々たる音色が響いた。馬頭琴も二弦だが、草原で弾くから強く響く。二胡はそれよりずっと小さくて、優しい響きである。二本の弦の間に弓が既に入っていて、真ん中の弓が左と右の弦に触れ、あらゆる音が生まれてくるのだが、楽器では一番人間の声に近い音なのだそうだ。その二胡との出会いは・・・・・話は長くなるのだが、山椒家小粒さんというアマ落語家の高座(八月二日は日記の広場寄席をしていただいた)が二十三日にあるので、土曜日の広場の日が火曜日に変更になった。で、月曜日、三十歳の長男の就職に必要な書類を取りに区役所へ行く途中の公園で二胡の優しい響きを耳にした。話を伺うと、彼女も三十二歳のご長男の転居の手伝いにと。それぞれの長男への対応が似ていることもあり、話も弾み、翌日の日記の広場で二胡を弾いてくださいとお願いする。翌朝早めに来られ、急用で鹿児島に帰らなければならないから、弾いたらそのまま駅へ行きますと仰る。見ず知らずからの依頼だから断っても当然なのに、律儀に約束を果たしてくださったとに感激。  人去って自由な風と赤蜻蛉     中島 順子
 人と話すのは楽しい。それなりに気分が高まったり刺激を受けたりする。しかし、人が去った後の微かな解放感を人見知り(昔は人と話すのが苦痛だった)が改善された今でも感じる。そういうひそかな自由さを風に込め、そんなこととは無関係に自由に飛んでいる赤蜻蛉の対比が効果を上げている。「人去って」を「去るものは追わず」の「去って」と解釈すると、単なる負け惜しみになって「自由な風」が生きてこない。

もう一歩もう一歩先シャガの花   中野 幸子
 著莪の花は、しゃがんで見えるところに咲いていると語呂合わせで覚えたことがある。あの白い花を見かけると夏だなと思う。たくさん採って大きな花瓶に入れる。一日花なので、翌朝には沢山しぼんだ花が散らばっているが、次の花が凛と咲いている。幸子さんは著莪の咲いている道を歩きながら「もう一歩」と自分を励ましている光景。でも「一歩先」とあるから、もう少し先の著莪の花を折り採ろうとしているのかなとも解されて、惜しい。
  東に地震西に夕顔咲きはじむ    林 照代
 東と西とくると安住敦の「しぐるるや駅に西口東口」を思い出す。地震(ない)の不安感、不気味さとと夕顔の妖艶かつ清楚さとが上手く重なって、映画にあるクローズアップ技法の効果をもたらしている。説明は一切なく、言葉だけで光景を浮かび上がらせるこのような俳句が、樹集に増えることを願う。

梅雨明けのひときわ目立つひまの紅 原 サカエ
 今年は長い雨だった。だから梅雨明けの紅色の花がさかえさんの目を射たのだろう。「ひま」は唐胡麻のこと、その種子は蓖麻子で蓖麻子油を絞る。と辞書にはあるが、実物を見たことがない。紅色のひまをいつか見たいものだ。

さあ話してごらん茗荷の子     広重 静澄
死に方は上手とおもう茗荷の子   堀井芙佐子
青鹿がいるかも知れぬ茗荷の子   瀧  春樹
 晩夏、茗荷から出てくる花穂を茗荷の子と称し食用にする。一村一品運動の発祥地大山村がまだ何もない頃、つまり貧しい村だった頃、大伯母がいたので夏休みをそこで過ごしていた。大伯母の養子夫婦の夫は戦死、妻が二人の娘を抱え失対事業で生活を支える暮らしだったから、村の平均よりもっと貧しかったのだろうが、ポンプを押して風呂水を汲んだり、柴を燃やして風呂を沸かし、下火加減の時に、立派なのは売るから屑の玉蜀黍を突っ込んで、熱っと言いながら食べたり(ああ、美味しかった)むしろ毎夏避暑?に行けることを得意がっていたのだが、一番嫌だったのが毎朝のみそ汁の実が茗荷の子だったこと。味覚が幼い私には、乙な味なんてものではなく、どうしても口に入れらない。ぺらっとした花も入っていて、花を食べるというのも馴染めなかった。勿論今だったら風雅だねと茗荷の花を美味しく戴くだろうが、その機会がない。畑のを摘んできて食していた昔の贅沢さを懐かしむ。静澄さんの茗荷の子は擬人化と読むと、その湿り気から内気弱気といった少年少女像が直接浮かぶ。芙佐子さんの茗荷の子は香り同じ湿り気だが香りを帯び、叔母さんの人生を一呼吸置いて述べている。そうか、青鹿と茗荷の子は同じ質感なんだと発見させられた春樹さんの句は秀逸。

弁当を引っ提げておく夏の山    増谷 信一
 艶な恋句の少ない樹誌上で、いや樹だけではなく、俳句全般に恋句は少ないのだが、信一さんの恋句はしっとりとして沖隆史さんといい勝負なのだが、こんなおおらかな句はまたいい。弁当をそこら辺の枝に引っかけたに過ぎないが、それを夏山にと言い換えたところに、気分の良さが伝わる。俳句は虚構である。虚構というのは手っ取り早く言えば「うそ」嘘である。しかし嘘を言っても、それがそうだろうなと真実めけば、その俳句は成功したと言える。嘘が真実となる。言葉にはそんな力がある。だから、わたしたちは言葉を大事に使わなければいけない。大事に使うというのは、この言葉がいいかな、あの言葉がいいかなと吟味するのもそうだが、その次の段階として、「この言葉しかない」と信じて使うことである。それが言葉の命を生かすことだろう。

  父母よ月下美人が今開く       矢野 澄湖
 言葉が命を持って迫る好例。呟きをそのまま俳句にしただけではないかと言うなかれ。咲いても数時間でしぼむ月下美人を父母に見せたい澄湖さんの思いが言葉に命を吹き込んでわたしの胸を打つ。

  歩の初め向襟くぐり風薫る      秋山 修恵
 向襟は向かい襟のこととヤフーで検索してわかる。図解がないので想像なのだが、羽織やチョッキに向かい襟とあるので、重なっていない襟なのだろう。風が気持ちよかったと述べる修恵さんの一番に言いたかったことは「歩の初め」外に出て歩き始めの気分、そこには一抹の不安あり、緊張感有り、そこへ襟元をくぐり抜けた風の爽やかさが
そういうものを取り去って楽しい気分にさせてくれたからこの句が生まれたのだろう。

青田風字に二つの神の川      餘野 スミ子
鬼はみな神の面して村祭り     魚返 サツ子
 日本人、あれほど神仏を崇めていた日本人の心から神仏がいなくなっのは戦後の物質主義のせい?スローな生活が見直されているのだから、神仏をもう一度取り戻してはどうだろう。権威というと悪印象しか生まれないので誤解されやすいが、親やおとなが心中に権威を持ち得ないから、子どもはとても不安で、それで歪んでいくのではないかと考える。権威=神仏は短絡であるにしても、自分自身を信じていないおとなは子どもの手本とはなれない。威張ったおとなは子どもは嫌うが、そういう権威ではなくて、迷いながらも、真実を自分の力で求めようとする、真摯と言う言葉が好きなのだが、真摯な態度のおとなでありたい。俳句を作ることは生活や言葉への真摯な態度ではないだろうか。みなさん、もっと自信を持ちましょう。

  蝉時雨手から溢れる砂のごと   宮本 千賀子
  鶏頭咲く肉親固まりたるごとし  鮫島  康子
 蝉と砂、鶏頭と肉親、一見して別物なのに、そこに同質を見つける感性は天性の感覚なのだろうか。感嘆する。こういうふうに詠まれたあとでは、蝉と砂に感じられる無数、乾質、徒労感、鶏頭と肉親に感じられる厚ぼったさ、懐かしさ、うっとうしさ、という共通項を見ることが出来る。しかしそれはコロンブスの卵なのだ。別々のものに共通点を感じる心は、自分で養っていく他はない。
2003.10 「樹」138号掲載